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平成22年5月4日 校正すみ

大谷友之君有り難う

伊藤 正敬

 平成21年1月18日、大谷君は逝去された。昨年初めから肺気腫で外には出られなくなっていたが、家では普通の生活を続けてみえ、なにわ会ニュース99号迄はしっかりと校正をしてくれていた。9月ごろから体力が衰えて根気が無くなり、完全な校正が出来ないと言われたので無理しないよう校正は遠慮してもらっていた。それでも1週間に1回位は、電話でお話はしていたが、今年になって8日頃から電話が通じなくなり、どうしたものかと案じていたところ、21日、長女の大谷昌子様から次のメールを頂いた。

「いつもお世話になります。

父 大谷友之は1月18日午前3時17分、85歳にて永眠いたしました。故人の遺志により、本日、身内の者で葬儀を執り行いました。

 ここに謹んでご報告申し上げますとともに、生前賜りましたご厚情を心より感謝申し上げます。また、お香典お供物はご放念賜りますようお願い申し上げます。

 時節柄一層のご自愛のほどお祈り申し上げます。

       平成21年1月21日                   大谷睦子、泰一、昌子」

 メールを頂いてすぐ、奥様にお話したところ、「10日前から呼吸が困難になり、入院していましたが、18日早朝病院で亡くなりました。」とのこと。

  そして、1月14日に泉君が送ってくれた故加藤孝二君の遺影を最終号に入れることを聞いて素晴らしいアイデアだと言っていたと聞いた。

 大谷友之君は海軍兵学校卒業後、八雲で艦務実習を行った後、戦艦扶桑勤務をえて航空母艦大鳳に転勤、19年6月19日同艦沈没、運よく生き残った。その後、航空母艦天城勤務をえて駆逐艦霞に転勤、20年4月7日大和特攻作戦(天一号作戦)に参加、同艦は舵機故障、落伍した後米機の攻撃を受け艦は炎上、冬月により処分、大谷は冬月に移乗、佐世保に帰投した。

  その後、20年5月海龍部隊である11突撃隊に転勤、同隊で終戦を迎えた。大谷君とは生徒の時は分隊も部も異なり、卒業後の実習艦も異なり、ほとんど接触は無かった。

 彼と親しくなったのは、自衛隊退職後、湘南CGCに参加するようになってからで、よく戸塚のお家によってマイカーでご一緒するようになってからである。

そして、平成7年頃故押本君の提案で、私が「なにわ会戦没者名簿」を纏める事になり、その資料として多数の資料をコピーして頂いたり、貸して頂いたりして、同8年末に完成し会員に配布した頃からさらに親しい仲となった。

その資料の中には、彼が入手した戦没者412名の公式記録がある。その記録には各人について、「氏名、生年月日、死亡年月日、死亡時の所属、死亡時の場所、その時の状況、家族構成、出身中学、生徒時の分隊、実習艦、実習航空隊、実施部隊等」が記載されている。働きさかりの時期によくもこれだけのものを入手し纏めあげたものとただただ感服するばかりである。

「なにわ会ニュース」の前身として、昭和2712月1日に発行された海軍兵学校72期の会誌がある。この会誌は残念ながら3号で中断されたが、この1号、2号は大谷君の並々ならぬ努力で発刊されたものである。そして、「バイパスニュース」、「なにわ会ニュース」になってからも、平成20年末まで、校正を引き受けてくれただけでなく、幾多の貴重な提案、投稿を頂いた。投稿の主なものだけでも次の通りである。

1 慰霊祭関係  3件

2 クラス会関係 2件

3 物故者の追悼 7件

4 有縁者関係  11

5 その他    9件

 さらに、大谷君は名簿編集についても、クラスの不明者の追跡調査、新規掘り起こし、前後クラスとの移動確認、誤記録訂正等完成に向けての奮闘は目覚ましく、名簿編集に貢献した大谷君の功績は特筆されるべきものがある。

 大谷君は、クラスの生き字引で、何でもよく知っていて、本当に頼りになる期友であった。

本当に有り難う。心からご冥福を祈るばかりである。

 (なにわ会ニュース100号129頁 平成21年3月掲載)

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