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平成22年5月4日 校正すみ

大岡要四郎君への弔辞

 都竹 卓郎

海軍兵学校第72期の同期生一同を代表し、謹んで故大岡要四郎君の霊位に申し上げます。

この度の君の突然の訃報は、我々の全く夢想もしなかった悲痛事でありまして、この想いは如何なる言葉によっても到底尽くし得ません。

顧れば、昭和15年秋、国家非常の時局に臨み、相携えて共に海軍を志し、栃木県立真岡中学校より参じ来た君と江田島の生徒館で相見えてから、実に半世紀に垂んとする歳月を閲しました。

兵学校当時の君は、誠実にして明朗、剛毅にして朴納、旺盛なファイトと温かい情宜を併せ持った、真にカーデットらしいカーデットして、クラスメートの敬愛を一身に集める存在でありました。その独特の姓名申告の語調を舵取りの号令になぞらえて、我らがヨーソロ(宜候)の愛称が生まれたのもこの時期であったように思います。

越えて昭和18年秋、蛍雪3年の業を卒えた我ら72期が勇躍実戦部隊の配置に赴いたとき、太平洋の戦局は漸く落日の様相を呈し、以後7百日に及ぶ悪戦苦闘の過程で、クラスの過半数、335名を失うという悲運が待ち受けていたのであります。

この間、君は少尉候補生の頃から生え抜きの駆逐艦乗りとして終始南方最前線に在り、文字通り東奔西走、寧日なき状況でありました。昭和19年5月のビアク防衛戦、6月のマリアナ海戦、10月の比島海戦、その他もろもろの作戦に、第27駆逐隊の一番艦時雨の通信士として参加し、とりわけ比鳥海戟ではスリガオ海峡からレイテ湾に突入した第3部隊7艦のうちへ時雨のみが敵の重囲を破って帰投するという修羅場を経験されたその戦歴は、我クラスの中でも一きわ光彩を放つものと言って過言ではありません。

戦争終結後は暫く復員輸送業務に挺身された後、転じて東京商科大学に学び、卒業後は東洋レーヨンに在職、さらに経営コンサルタントとして人事、社員教育の分野でユニークな活動を行われたことは、夙に我々の記憶に新しいところでありますが、この間そのあくまでさわやかなネーヴィーらしい人柄は一貫して変ることがありませんでした。

いまや君も我も60歳台の半ばに達し、激動の青春期に代わる静謐(せいひつ)な人生の秋を互いに楽しみ合おうと念じていた矢先、この訃に会うとは、まことに無念のきわみと申すほかありません。

65年の人生を常に真摯に営んで来られた君を偲び、その眠りの永遠に安からんことを祈りつつ、ここに万斛(ばんこく)の涙と共に弔いの辞を捧げるものであります。

平成元年7月9日 

なにわ会代表 都竹 卓郎

(なにわ会ニュース61号17頁 平成元年9月掲載)

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