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平成22年5月4日 校正すみ

大森慎二郎兄の葬儀

三澤 禎

大森 慎二郎

大森慎二郎兄は、平成1810月9日1255死去、81歳の生涯でありました。

クリスチャンである大森兄の葬儀は、「町田駅前会場けやき」で平成181013日前夜式、14日告別式とキリスト教式で執り行われました。

 ご理解ある心優しい佐藤聡牧師の計らいで、棺は軍艦旗で覆われ、賛美歌や聖歌とともに機関学校校歌も斉唱しました。

しめやかな雰囲気の中にも大森兄を偲ぶ多くの信者の方々の暖かい情愛が式場に(ただよ)い、天国への階段を昇る大森兄の満たされた顔を思い浮かべました。

遺体は横浜市北部斎場で荼毘(だび)に付され、佐藤牧師の終祷(しゅうとう)を頂き、葬儀を終えました。

参列者:(53期)  阿部  金枝健三 藏元正浩 佐丸幹男 斎藤義衛  野崎貞雄 
         村山
  室井  三澤 禎 北村夫人 室井夫
     
(兵72期)足立英夫 (機55期)相田正夫 井上雄治、森 博正

 

思い出(弔辞)

大森兄、貴方への弔辞を読むことになりました。飯田兄の時は貴方にお願いし、飯盛兄の時は金枝兄にお願いし、今回は金枝兄から私に言われお引き受けした次第です。それにしても今回はびっくりしました。

本年4月に心筋梗塞で入院、応急の手術のため胸を開いてバイパス大手術を受けられた時、我々同期生数名で藤が丘の昭和医大で病床の御見舞に行きましたが、手術が成功し、後は体力の回復を待つのみと元気な笑顔で迎えてくれましたので、早晩お会い出来るものと明るい期待で帰って来ました。

今年10910の両日55期の森君のお世話で毎年の様に実施している恒例の9分隊会を横浜市営の「森の家」で開催しましたが、1号(53期)は私三澤と金枝兄の2名、3号(55期)は相田正夫君、井上雄治君、高橋一郎君、羽仁寛君、森博正君の5名が集まってくれ、乾杯をして宴会が始まって暫くして53期幹事の村山兄より電話が入り、大森兄の訃報が伝えられ一同ショックを受けることとなりました。

これより先、大森兄より出欠問い合わせの回答が来ており「4月手術の後、体力衰え、未だ外出がほとんど出来ませんので欠席させて頂きます」と、メッセージが寄せられていました。また、金枝兄も暫く前に電話連絡した折は「手術後体を動かすことが無かったので体の動きが悪くなってしまった」と言っていたが、声の調子は元気そうであったとのことで、80歳代の我々では止むを得ないことだろうと思われました。

今回の訃報は、動脈(りゅう)破裂と言うことで村山兄のメモによると、1610月、十二指腸に動脈瘤を発見とあり、その後三澤が単独で見舞いに行った折、かなりの大きさ(20mm前後?)に見える瘤を見させてくれましたが、手術は持病の心臓病があるので様子を見るのと、本人の決断によると言っていた様な記憶があります。今回の手術後の回復を待つのと、動脈瘤の爆弾を抱えての待機状態であったと思われます。

本年2月、同期生の橋元一郎兄が病院の薬局で薬を待っている折、動脈瘤破裂で急逝しており、二度にわたるこの種の病による失命は誠に残念です。

さて、大森兄の御父上は兵学校出身のエリート海軍将校で、ハワイ海戦に当り海軍少将で艦隊司令長官であり、また、末期には回天部隊と関係の深い部署に居られた様に聞いた気が致します。我々の卒業時の練習艦隊の山城艦長も同期で、当時の海軍の錚々(そうそう)たる将軍との親交が深かった様であります。

大森兄は幼少の頃から病弱な体質で、病に明け暮れた時期が多かった様であります。機関学校の一号(最上級生)当時は9分隊で温習室(自習室)では私と席が隣り合っており、温和で真面目な性格にも拘らず芯の強さを持った人物でありました。この頃は特に病弱と言うことはなく普通の訓練、訓育をこなしていたように記憶します。

機関学校への入校は昭和1512月1日で、120名が入校し、同18年9月15日卒業しましたが、激しい訓育・訓練で落伍するもの、また、上級クラスからの落伍者もあり、卒業は111名に減っていました。

機関学校の卒業式で家族が参観しましたが、大森兄は妹さんが見えました。当時の我々にとっては(まぶ)しいばかりの別嬪(べっぴん)さんであり、飯田兄が少尉候補生の凛々(りり)しく美しい軍服姿で胸を反らせて気取りながら生徒館横の芝生で妹さんと並んで写真を撮影している時、教官室の2階の窓から若い教官が数名奇声を発してこちらを見ながら手を振っていたことが記憶に鮮明であります。

私と大森兄、飯田兄、金枝兄の4名は整備学生を希望し、機関学校卒業後の山城、伊勢、竜田による練習艦隊での2ヵ月の候補生実習の後、追浜海軍練習航空隊で12月1日から翌年の6月30日まで学生として飛行機の整備についての勉学と実習に励みました。

19年7月1日付で学生教程を終了し、実施部隊に配属されました。

惨憺たる敗戦の惨苦を経て、終戦の時、私達53期卒業生111名中57名が戦死、54名が生還しました。

復員後、新たに学校に行き直すことになった私と大森兄は多少縁があり、当時大森兄の実家が世田谷区の九品仏にあり、私は親の知人の家が九品仏の隣の尾山台にあり、当初そこに寄宿した関係で、大変な食糧難、住宅難、交通難の折、なんとか彼と顔を合わせることが出来ました。大森兄は等々力に六畳一間を借り勉学に励んでいました。彼は、私の記憶では、東工大と東大農学部に合格し、東大を選定した様で、その後中退、挫折したのも病弱の体質のためであろうと思われます。

彼は昔から写真の趣味があり、趣味を生かして職業として店を構えました。コレスの加藤孝二兄(兵科)がカメラ店をやっており、色々と指導を受けた様であります。

何時ごろから始めたか不明ですが、健康増進のため東京・神奈川近辺の河畔を、暇を見つけて熱心に散歩し、趣味の写真に興じていました。

2年先輩の竹林様が同期生3名共著で3G会「川辺の散歩道」と言う著書を発行しており、これを学習していた様です。

私達53期の歩く会は、彼の歩きに共感し、便乗したもので、彼が世話役となり、実施して来ました。大森兄は、東京・神奈川地区に関し歴史、地理に非常に詳しく、また、記憶力が鮮明で、53期会誌『連絡報』に投稿する幼少時の記憶等、詳細で鮮明なこと、驚くべきものがあります。

歩く会に関する計画、資料の準備、配布の労を(いと)わず、またその都度撮影した写真も配布してくれ大変お世話になり、本当に心から感謝に堪えません。

同期の上田兄が計画した自動車旅行に私と一緒に参加したことがあり、集合場所まで奥さんに付添われて来た事がありました。その外、奥様とお会いしたのは、飯田兄と二人で入院中の大森兄を見舞いながら彼に会えず奥様だけにお会いし、また、奥様が体を悪くし食道を穿(せん)孔して流動食を流す様になり、大森兄が三度、三度面倒を見る様な状態の時、そして参拝クラス会に首が曲がって大変な状態の奥様を連れて来た時であります。

数年前、「森の家」の9分隊会で夜中に奥様から彼の所に頻々と電話がかかって来た事があり、大森兄に頼り切っておられる様子で、彼も親切に応じられており、お互いに大変に親密な間柄が伺えました。

奥様が亡くなられて後、歩く会のあと、大森兄の都営アパートに立ち寄ったことがありましたが、奥様の遺影が祭られてあり、大変に美人な奥様だと分りました。亡くなられた時は彼が添い寝をしていたが気付かなかったと嘆き悔やんでいました。大森兄が病気の時は奥様の世話になり、奥様が病気の時には彼が暖かく、親身な介護をし、大変に仲の良い愛情細やかな御夫婦でありました。

なお、別嬪さんの妹さんは若くして亡くなられた由、また、世田谷の実家は火災で焼失した由で、色々と波(らん)があったことを彼は淡々と話してくれました。

今回の9分隊会では3号の相田君が回天に関する資料を色々と持参し配布回覧してくれました。また3号の羽仁君は回天部隊に配属されていたそうで55期の3号諸君は回天について深刻な思い入れがある様です。

貴兄が51期の黒木先輩(回天の創始者)の墓に(もう)でて来たと話しておられたが、先輩のお墓は岐阜県下呂町にあり、大森兄ひとりで遠路遥々(はるばる)よくお参りされたと、感心しております。

貴方はキリスト教に深く傾倒されていますが、真面目な性格、病弱な体に対する苦労、戦没同期生に対する深い思い入れ、心から愛した亡妻に対する追慕の念による処も大きいと思われます。貴方には優しく、穏やかな育ちの良さがあり、遠慮勝ちの面もあったようです。

どうか、天国で、より一層仲(むつ)まじくお過ごし下さい。また、残された御家族のことも見守って下さい。

大森兄、長いお付き合い誠に有り難うございました。

貴兄のことを縷々(るる)述べましたが、最近は物忘れが多く、()けていますので思い違いもあるかも知れません、間違いがありましたらどうか御容赦下さい。

平成181011

海軍機関学校第53期代表  三澤 

(なにわ会ニュース96号31頁 平成19年3月掲載)

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