平成22年5月4日 校正すみ
大熊直樹君への弔辞
小野 義市
大熊君、十月の初めに訪れたとき、「今度は五月にやってくるよ。一それまでには元気になっておれよ」と言ったら、「うん、頑張るたい」 と答えてくれたではないか。
突然の計報で、驚くというよりは、がっくりきているというのが本当のところです。
いま、静かに半世紀前を思い浮べています。昭和15年12月、海軍兵学校第72期生として入校、第17分隊で一緒だったね。お互いの住所は、それほど離れていなかったけれども、筑後川を挟んで県が異なるために、全くの無面識だったね。毎日が緊張の連続であったけれども、二人で、そっと慰めあったことがあったね。
それは、夜の自習の時間も終わり、分隊全員で一日の反省をするときであった。私の順番が廻ってきた。「聖訓五ケ條」
「やりなおし!」
「一、軍人は忠節を盡くすを本分とすべし」
「やりなおし!」
どうにか、こうにか、べそをかきながら、その日を終えることができた。君の番がきた。
「五省」
「やりなおいし!」
君もさんざん苦労して終了した。
「申し訳ありません」
「やりなおし!」
「余計なことを言うなー・」
あの聖訓五ケ條、五省には、二人とも全く手の打ちようがなかったね。どうして、久留米地方だけが、「セ」と発音せずに「シェ」と発音するのか。それにしても、どの箇条にも「セ」が入っているのには閉口したものだったね。
戦後、昭和22年に復員した私は、君の家を尋ねていった。いまにして思えば、過酷な労働ではあったが、当時としては物質不足、食糧不足のとき。そんなとき、さすがは大熊君、やはり目のつけ所が違うと感服したものだ。しばらくして吉田修君が応援してきてくれた。私は馴れぬ農作業で手に豆をつくった。お互いに、暇を見つけては訪ねあって慰めあったものだったね。
やがて、吉田君は晩学を志して大学に進み、君は日本通運株式会社に身を措き、ようやくにして、君の天分を発揮することのできる場を持つことができた。寡黙にして冷静、節度のある言動、そして誠実そのものであり、てきぱきと社務を処理する人柄は、衆望の的であったし、東京本社においても重責を持たれたのは当然のことと言えるだろう。
私は、公職追放が解けたとき、君のお父上から「遊んでいるようだが、教師をやらないか」と誘っていただき、右も左も分からない教職についた。以来、何から何まで御両親様の御指導をいただいての教師の道であった。
この半世紀近く、君の御両親、御兄弟と家族ともども親しく御愛顧をいただいたことにお礼を申し上げたい。
それにしても、大熊君。君のことだ。.不眠不休の看病をされた奥さまに感謝しながら、御遺族の皆様にお礼を述べながら、旅立ってゆかれたことだろう。
大熊君、安らかに眠ってくれ。ネ
(なにわ会ニュース72号10頁 平成7年3月掲載)