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平成22年5月4日 校正すみ

追悼 大熊直樹博君

向井壽三郎

大熊 南鳥島

博多の大熊が亡くなった。

胃の手術をしたことは、昨年6月の靖國クラス会の折、大堀から聞いていた。そのあと、大阪の杉田からの便りでも知らされた。

見舞いの手紙を書いたところ、6月下旬、ワープロで打った「快気祝・御礼」の葉書をもらった。8月に入つてから、病気見舞を兼ねて暑中見舞の葉書を出したが、その後はお互い音信のないまま、いきなりの訃報だった。

胃の全摘と聞いたとき、もしかすると、という気がしないでもなかったが、うちのクラスでも、その「もしかすると」を乗り切った者は何人もいることだし、それほど深刻な事態とは受けとめなかった。

大熊は一昨年C型肝炎を病み、ひと頃、インターフェロンの副作用で苦しんだようだが、その年の暮れにもらった手紙では、体のだるいのはまだとれないが、肝機能のデーターはほぼ元どおりになったとのことだった。

明けて昨年の1月10日、本誌昨年春号にも書いたように、わたしは彼に会っている。

2人で、江田島一号時の分隊で残っている7名を代表して、彼の家の最寄り駅である筑前神官から汽車で30分ほどの小倉寄りの遠賀川に時松三助君のご遺族を訪ねたのだった。それについては重複をさけて省くが、こんなことがあった。時松家を辞したあと大熊は、「ひと晩俺の家に泊っていけ」としきりにすすめた。既に新幹線の切符を買っていた私にも私なりの都合があり、結局彼は新幹線の停車駅である小倉まで私につき合ってくれた。そして、新幹線で博多までゆくというのだ。となると、急行の止まらぬ筑前神宮に戻るには、博多でまた乗り換えてバックしなければならなかった。遠賀川から下りの直通ダイヤがあるのに、それに小倉から博多までとはいえ、特急料金だって馬鹿にならないのにと、私はみみっちいことまで考えて気になったが、魚心に水心というか、一緒にいる時間の長引くことを徳として、彼の厚意に甘んじたのだった。

高橋猛典とのことでも似たようなことがあった。彼が亡くなる前の週の水曜日のことだった。高橋に知人の胃の検査を頼んだ。双方の日程の調整に手間とり、その日のうちに二度彼から電話をもらった。こんなとき、こちらから電話して病院の方の都合をきくのがそれまでの慣わしで、高橋が一度ならず二度までも電話をくれるのはかつてないことだった。それに彼は、クラスのだれそれについていつになく長話をした。忙しい彼の仕事の邪魔をしてはならぬと、要件だけで、そそくさと電話を切ることにしていた私は、その日の彼にいつもと違うものを感じた。

人懐かしさ、人恋しさという言葉があるが、人は自分の余命について、何か感じるものがあるのだろうか。

大熊とは一号の時、同分隊だった。戦中は艦と飛行機に別れ、18年秋の拝謁以来、会ったことはなかった。戦後問もない23年だったか4年だったかに、久留米の彼を訪ねた。ういういしい奥さんがいたことと、九大在学中の三好の「吟遊詩人」ぶりについて聞かされたことを覚えている。

その次に会ったのは彼が東京へ転勤になった直後、辻岡の世話で芝白金あたりの三菱電機のクラブで彼の歓迎会を3人でやった。東京在勤中は、いつでも会えるという安心感もあってか、クラス会で会う以外お互い往き来はなかった。

4年前の年の5月、京都で52分隊一号会をやった。同分隊の残った7名のうち、私を除く6名にはそれが大熊との最後になったわけである。

本誌45号、46号に分載された大熊の手記「南鳥島戦記」を読み返した。うち続く敵機の銃爆撃と艦砲射撃にさらされ、ベンベン草で辛うじて飢えを凌ぐ極限状態での大熊の奮戦ぶりに、亡くなった今一入の感銘を覚えた。

戦記というのはえてして、己を繕い、手柄話に仕立て上げられがちである。下士官兵の書いたものでも、艦長か艦隊長官気取りの大所高所からのパースペクティブをもっていたかのような口ぶりの記録もある。

大熊の「南鳥島戦記」は違っている。195月南烏島着任早々に経験した初陣についても、全く等身大の視座から、誇張も気取りもなく綴っている。彼そのときの自分を、「真っ青な顔で、武者振い (?) しながら」 と表現してしいるが、これはだれしもが身に覚えのあること。率直さが‖層の真実味を保証してくれる。またユーモアを混じえた筆づかいは、その底にあるシリアスな事態を却って浮かび上がらせている。

読み終わって私は、大熊の不屈の頑張りと嘘偽りのないまっとうな人柄を再確認するとともに、ゆとりのあるユーモアを混じえた洒脱な文章に、苦難の戦中戦後を生き抜いてきた人間の自信のようなものを見とった。

大熊はどうかすると、旧家の長男によくある人のいい甘えん坊のようなところを見せることもあったが、本音のところ、古武士の風格を備えた剣道着姿のよく似合う九州男児だった。宣なるかな彼の先祖は、有馬藩の剣道指南大熊又右衛門という人だったという。

九死に一生とは生残った者すべてにいえることだが、中でも大熊は、巌も辛苦に満ちた闘いを強いられた一人といえるだろう。戦った後は、二人のご子息を人並み以上立派に育て上げ、定年後、福岡市郊外の広い敷地に家を新築した。すっかり九州弁に戻り、ふる里久留米ではないにしても、同じ北九州の博多を終りの栖として根をおろした。

これからこそが、ご夫婦の平穏な楽しい老後が約束された時だった。

大熊君、先に逝った期友ともども、安らかにおやすみください。

 

大熊の葬儀             三好文彦(51123日)

大熊直樹君の告別式は、彼の故郷久留米の栂林寺で19日午後2時から多くの万々の合掌で、彼の人柄をしのぶに、ふさわしいものでした。

わがクラスからは、千葉から吉田 修、福岡近郊から平田、花田、伊集院、小野、それに故吉田義彦君のご令室と小生でした。そして、クラスを代表して小野君が四号同分隊の回想をまじえての弔辞となりました。

なにわ会からの3万円の香典は、大熊家と相談し、生花一対といたしました。

(なにわ会ニュース70号12頁 平成6年9月掲載)

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