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小川 治夫

謹んで故鬼山隆三君の御霊前に、福岡地区海軍兵学校、機関学校、経理学校の三校合同クラス会を代表してお別れの言葉を捧げます。

本日、このような形で貴兄と御話しょうとは、誠に痛恨の極みであります。

貴兄がお亡くなりになったとの知らせを受け、余りのことに一瞬息をのみ、とてもとても信ずることで出来ませんでした。

貴兄は大変お元気で福岡運輸鰍フ発展のため全身全霊を打ち込んでおられましたが、一昨年突然健康を損なわれました。私共非常に心配致しておりましたが、貴兄は持前の精神力と努力で、また奥様始め御家族の御看護と会社の温かい御理解とにより見事に全快をされました。

 忘れもしない昨年1010日、貴兄はネービー登山会の「背振山糸の宮山・井原山・野河内の縦走」に参加されました。貴兄の健康を案じ乍らも、些か自信のなかった私は逆に貴兄に元気づけられ、秋晴れの中、朝から夕方の10時間全員が踏破することができました。

麓の旅館で一風呂浴びた後、

「鬼山さんの健康はもう本物だ。」 

「健康のお墨付き」

と乾盃し、一同心から喜び合ったあの光景が、今でも目に浮かんで参ります。その後も、御多忙の中を海軍の会合には、以前のように出席され、本当によかったと安心致しておりました。先月、検査のため入院されたと聞き、案じておりました矢先、奥様始め御家族の御祈りと御着護の甲斐もなくこんなに急変されるとは、貴兄もさぞかし残念だったことでしよう。また残された御家族の御悲しみは如何ばかりかと申し上げる言葉もございません。

貴兄と私共との関係は、40年も前のことになります。貴兄は、太平洋に風雲急を告げる昭和1412月全国多数の受験者の中から選ばれて海軍兵学校に入校されました。それ以来の御縁であります。

江田島での生活は、充実した素暗しいもので、その思い出、共通の経験は数限りなく言いつくせませんが、苦しさも喜びも分かち合い乍ら、若き青春の情熱を全身にぶっつけて、純粋に生きた時代でした。

そして貴兄は、在校中にあの12月8日を迎え、遠い戦場に思いを馳せ乍ら時機至りなはと研鑽を続け、昭和18年9月15日第72期として卒業、貴兄は巡洋艦鬼窓の乗組となり、勇躍風雲急をつげる南太平洋の第一線に進出されました。

時恰も、ソロモン作戦の終末を迎え、誠にきびしい情勢に変わりつつありましたが、貴兄達第72期の少尉候補生は意気天をつく楓爽たるものでした。

その後、転勤した巡洋艦大井は昭和19年7月19日南支部海で奮戦の末沈没。次に乗艦した超大型航空母艦信濃も1128日、米潜水艦の魚雷攻撃を集中的に受けて、1500名の戦死者を出し遂に沈みましたが貴兄は砲術士兼衛兵副司令として奮闘、最後に陛下の御真影を捧持して海中に身を投じ奇跡的にも駆逐艦に助けられました。

この様に貴兄は、再三に亘り生死の境を乗り切った強運の持主でもありました。

貴兄の戦後の人生には、あの江田島における貴重な人間形成と卒業後一身を擲って死と直面した崇高な戦闘体験とが柱となっていたことと思います。そして、昭和20年6月海軍大尉に昇進駆逐艦蔦の航海長として活躍されました。

戦局は、日に日に逼迫の度を加え、私共の周囲の戦友も、各地域に別れた戦友も海に、空に、陸に、日本の悠久を信じつつ次々と散華していきました。貴兄も私共も、遅かれ早かれ何れはと死を覚悟しておりましたが、あの8月15日を迎えました。

  その中で貴兄は、同じ目的で共に闘った外地に残された人々に思いを馳せ、進んで復員輸送に従事、フイリヅピン、台湾、北支と何回も往復されたのであります。

そして福岡に復員、銀行勤務から富永社長さんの所に馳せ参じ、今日の福岡運輸の発展に寄与されました。漸く世の中も、私共も落ち着いて参りました昭和38年、貴兄と一緒に全国にさきがけて福岡地区三校合同クラス会の初会合を開きましたが、そのときは僅かに20人でした。その後年を追うごとに連絡がつき、増え続けて会員600名にまでになりました。それは、海軍の運命共同体という伝統が私共に与えてくれたものであります。しかし、全国の中で福岡が特によくまとまり盛んになりましたのは、何といっても貴兄の「相談ごとにはとことん親身に世話をする御人柄」と、「清濁併せ呑む大器」とが後輩の方々の人望を集めリードしていただいたおかげである事を私共一同等しく承知しており、その結果、肩書き、利害抜きの裸の付き合いのできる多くの友人を持てた幸福を常々感謝致しておりました。

これからも貴兄の育てたこの良風を守り続けて行きたいと念じております。貴兄が戦後情熱を注いだ福岡運輸は、貴兄が築かれた基盤とレールの上で、貴兄が身を以って導かれた方々の手によって必ずや会社を立派に発展させていかれる事でしょう。

 一方、御家族の方にとって貴兄は夫として、父としてかけがえのない大切な方でした。59歳は余りにも早すぎました。しかし乍ら御子様方は皆様揃って素晴しく、夫々の社会に巣立っておられます。必ず貴兄の心を受けとめ、力を合わせて奥様と鬼山家を守っていかれます。

私共、海軍関係者一同も、微力ではありますが、貴兄からいただいた御厚恩に対し、些かでも御家族のお役に立てればと思っております。お名残は尽きませんが、もうお別れの時が参りました。

40年前青春の情熱を身体ごとぶつけたあの懐かしい海軍時代に思いを馳せ、また戦後長い間の御厚情溢れる御交友に感謝しつつ、貴兄と機会あるごとに歌った海軍兵学校校歌「江田島健児の歌」を本日列席の友と共に歌い、心から御冥福をお祈り申し上げます。

鬼山隆三君安らかにお眠り下さい。     さようなら。

昭和551119

海軍三校合同クラス会 

小川 治夫 

(なにわ会ニュース44号36頁 昭和53年9月掲載)

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