TOPへ      物故目次

平成22年5月3日 校正すみ

追悼 及川久夫君

足立 之義

昭和56年5月1日午後6時半、親友及川久夫君が急逝してしまった。

  4月10日に急性肺炎で、自宅で倒れ、直ちに鎌倉の佐藤病院(高橋猛典院長)に入院したと開き、愚妻を見舞にやったのは4月16日であったが、その報告によれば、大分快方に向っている由で、すっかり安心し切っていた。

5月3日には他にも用事があるので病院に行ってみよう、しかし、その前に電話で聞いてみないと、もう退院しているかも知れない、そう思っているところへ、全く突然「昨晩死んだ」という電話を受けたのである。まさかとは思ったが、現に押本直正君が及川君の自宅から電話しているのである。とるものもとりあえず車を飛ばして、横須賀衣笠の及川宅に行った次第である。

彼は真新しい棺の中に、今寝ついたばかりのような顔をして横たわっていた。「及川〃・・」と呼べば今にも起き上って来そうに思えた。

無暗に涙線がゆるんで合掌の手を濡らした。仮設の仏壇を前に、御母堂は、涙の中にも気丈に、いろいろと話された。その日、5日2日は、なんと、一人息子の裕昭君の結婚式の日であったのである。当然のことながら、久夫君の奥様を始め裕昭君、花嫁のかおりさんその他数名の関係者のみは、昨晩の久夫君の死を承知の上で、涙をかくして晴れの結婚式に臨んでおられたわけである。残酷というべきか、悲劇というべきか、何とも言い様のない複雑な気特であったろうと、特に御母堂と奥様には、申し上げる言葉もない程であった。

押本、伊藤正敬、足立喜次の3君と相談し、御家族の了解を得て、私が葬儀委員長ということになり、5月3日午後7時からお通夜、5月4日正午から告別式と決まって、それに伴う細部の打合わせと、電話連絡等の手配を行なった。

取り敢えず、寂しい仮設仏壇の両側に「72期クラス会」と「なにわ会」名儀の生花一対を飾った。

お通夜も葬儀も、曇り空ではあったが雨は降らず、数十名のクラス諸君が参列してくれて、順調かつ盛大に終了することができた。

全国のクラス諸君からも10数通の弔電を頂いた。賑やかなことの好きであった及川君も、きっと喜んでくれたことと思う。及川君の御家族も、みんな心から感謝しておられたので、誌上を借りて改めて諸君にお礼を申しあげる。

告別式において小生が読んだ弔詞を左に掲げて、同君の冥福を祈る。

弔  辞

及川久夫君

君は、百花乱れ散る春風に乗って、アッという間に昇天してしまいました。全く驚天動地というか、夢にも思わないお別れに、唯唖然として天を仰ぐばかりでした。

  顧みれば、君は、市川市の真間小学校から、東京の府立七中を経て昭和15年、海軍兵学校第72期生徒として入学された俊秀でありました。

同期の桜として、同じ江田島に学んだ私は、海軍時代、終戦後の混乱期、海上自衛隊時代、そして現役を退いた後においても君とは切っても切れない深い縁に結ばれていました。南方海域の激戦場を必死に駆け巡った軍艦大淀ガンルーム時代の思い出、はたまた、20年間の長きにわたって苦楽を共にした海上自衛隊の数々の思い出、そして退官後も私事を親身になって世話をしてくれた姿、溢れ出る涙の裏に走馬灯の如く浮びかつ消えていきます。

今は早や、呼べど答えてくれない及川君、時あたかも、あれ程楽しみに待っていた、最愛の御子息の結婚式の前日に逝ってしまうとは、さぞかし残念であったことと思います。残された御母堂と御令室の、複雑な悲しみは察するに余りあります。

幾度かの死線を越えて来ながら、未だ57歳の若さをもって、幽冥境を異にしてしまった君は、まだまだやるべきことが沢山あったことでしょう。然しながら今は唯、これが寿命であったのだと諦めざるを得ません。

どうか、安らかに成仏して下さい。

 我々クラスの生き残り達が微力ではありますが、できる限り御家族のお力になって行きたいと思っています。

 また、新婚の御子息夫婦も悲しみを乗り越えて、きっと立派に君の遺志を継いでくれるものと確信いたします。

どうか草葉の蔭から、あたたかく見守り力づけてあげて下さい。

今日ここに、百年の知己に永遠の別れを告げるに当り、万感胸に満ちて言葉を選ぶことができず、唯静かに君の御冥福を祈りつつ弔詞を終ります。 

昭和56年5月4日

海軍兵学校第72期クラス会

代表  足立 之義

 海軍顧みれば兵学校卒業後、軍艦大淀乗組となってトラック島に着任した三好文彦、伊藤国輔、定塚 脩、足立之義、及川久夫のクラス5名のうち、上記3名は次々と転出してしまって、及川と小生の二人だけが最後まで残ったのである。

大淀の初陣のカビエン対空戦(18年12月1日)から20年3月初旬の呉帰投(シンガポール呉間軍需物資輸送・北号作戦)まで彼は砲術士兼主砲発令所長として、私は三分隊士兼左舷高角砲指揮官として、数々の作戦に参加した。その間、寸暇を盗んで主に横須賀とシンガポールにおいて、2人でレスに通い痛飲放歌したものである。

海上自衛隊においては、彼は第10期幹部講習員として30年1月、厳寒の舞鶴教育隊に入隊し、僅か半年前に入隊した私が、その教官としてお迎えした。以後20年間、配置は異なっても、小さな世帯のこととて至る処で顔を合わせ、数限りない思い出が脳裡に刻み込まれている。彼は操艦が旨いということが自慢であった。実際に見たことがないので、真偽の程は不明であるが、永らく小艦艇の艇長をやっていたから、多分事実であろう。一杯飲む度に「月がとっても青いから遠回りして帰ろう・・・」という歌を、よく聞かされたものである。とにかくハートナイスで、絶対に怒りを顔に表わすことのなかった彼は、部下からも大変慕われていたようである。

横須賀警備隊副長を最後に、私より2〜3年先に海上自衛隊を退職した彼は、新横浜駅近くの建材店に就職していたので、私が退職直前に自宅を新築した時は、何から何まで、親身のお世話になってしまった。私同様酒の好きな彼は、当時から会社の若い連中とのつきあいを断わり切れず、時々飲み過ぎていたようなので、人様に忠告するような柄ではないが、一、二度年令を考えてほどほどにしろよ、と注意したことがあった。その都度神妙な顔をして忠告を受けてくれた彼であったが、何が病気の真因かは、もちろん素人の私には分らないが、身心の過労が祟ったことだけは言い得るのではなかろうか。

あと1年もすれば初孫の顔も見ることができたであろうに。少なくとも、あと1日元気でおれば、一人息子の結婚式の報告だけでも聞くことができたであろうに。

可愛想な奴〃‥どうぞ安らかに眠ってくれ。

(なにわ会ニュース45号5頁 平成56年9月掲載)

TOPへ     物故目次