平成22年5月4日 校正すみ
小笠原典麿君を悼む
西口 譲
市瀬からの第一報を聞いた途端「えーっ?」と一言発しただけで、数秒間思わず絶句してしまった。それほど意外であり、突然であり、にわかには信じ難い出来事なのである。2、3年前に会った時の彼の面影が、彷彿として瞼に浮ぶと共に、つい先日1月末だったか、2月に入ってからだったか電話で話した時の彼の声がまだ耳の奥に残っている。用件は江上氏(71期、元大湊地方総監)の母堂が亡くなられたことに関してであったが、それとは別に、今年に入ってからも手紙が一往復していた位であるから、あまりにも突然としかいいようがない。
今年も実に見事な青森りんごを彼から恵贈され賞味させて貰ったが、りんごに関しては古い思い出が一つある。記憶が定かではないが、30年以上も前のこと、場所は多分京都(あるいは東京)、クラスが2、3名一緒だったように思うが、「貴様等はりんごの食べ方を知らないな」というわけで、彼は持参した銘柄の新鮮なりんごの皮をむき、それを火にあぶって食べて見せた。それにつられて真似してみると確かに美味しい。皮の部分に栄養分が特に多いということだから、ポパイのほうれん草ではないにせよ、力がつくような気がしないでもない。しかしこれは、農薬や艶出しなどで汚染されてない時代の話であり、新鮮な上物に限られてのことである。
さて2月17日(月)、報せを聞いてすぐ時刻表を調べて見た。青森行きの列車は頻繁に出ているものの、乗換点の野辺地では止まらない特急が多く、しかも大湊線の運行本数が少ない上、東北本線との接続が極めて悪いことが分った。とに角夜行の連続で往復することに決めた後、道順を聞くべく電話した所、応対された母堂の口振りから、今は亡き小笠原が小生の来訪を心から待って呉れているように思えてならなかった。
上野駅から寝台車に横になったものの、色々の回想が回り灯篭のように頭の中を駈け巡ってなかなか寝つかれない。終戦後それ程たっていない頃とはいえ、小生の復員が21年6月だからそれ以後のことに違いないが、熱海は伊豆山の大きな旅館(名前は忘れた)に連れていって貰ったことがある。何しろ物も金も無い時代のこと、久々に温泉に浸り豪勢な一夜を楽しませて貰った次第であるが、彼の言によればBC(注)だった模様。腕に傷を負って海軍病院に入院中、ナースにぞっこんもてたことは、彼の気質が写真のようにハンサムな風貌からして容易にうなずけることではあるが、その余徳が、時代の逆転した終戦後しかも一流旅館にまで及んでいたとは、まことに恐れ入った次第である。
そして、どのような関係からかは知らないが、水谷八重子と多少近いので、一度その芝居を見に行かないかと誘われたことがあったが、矢張りゆとりのなかった時代のことゆえ実現の機会が無いままに打ち過ぎてしまった。(BC=ロハ=只=無料)
青森地方の雪の影響で列車が一時間遅れたため、八戸で普通列車に乗り換えて後、野辺地からは当初の予定より四時間もあとの大湊線の列車に乗る。陸奥湾の波打際にまで迫る真自な雪景色は流石に美しく、浄らかに昇天した彼を弔うにはまたとない光景であり、寝不足の眼に痛い位に染み込んでくる。裏日本のように雪国とは言えないだろうが、海軍時代を除く人生の大半をこの地で送った小笠原自身の人格形成や家族の生活に、冬期は雪に覆われるこのような北日本の自然環境が、どのように影響したことだろうかと、ふと感傷的な思いに駈られる。
大湊駅前からタクシーで総監部前まで、その正門の真ん前に小笠原家がある。彼の面影そっくりの母堂のお出迎えを受け、今は幽明境を異にした彼の霊前に、零戦の写真パネルを捧げて合掌する。いかに運命とはいえ、どうして彼だけがこうも早く先立たねはならなかったのか。熱いものがのどの奥に湧き出てくるのをどうしても抑えることが出来ない。飛行学生時代、そして最近の彼の姿が、二重映しとなって瞼の裏を往き来する。3年ばかり前、一度病を得た彼が、その後の養生により日常の生活には差支えない所まで回復し、つい先日も元気に屋根の雪降しをやっていたというのに。零下10度を超える酷寒の日、熱い湯の風呂場で突然倒れたとのこと。若い頃、家業の郵便局業務を引き継ぐにあたり、当初は随分苦労したらしいが、最近では持前のアイディアを次々と実行に移し、東北地方の郵便局中、屈指の好業績を挙げていたことは、生前の本人から直接聞いて知っていたし、大湊に勤務あるいは寄港したクラスその他のネービー関係の連絡や世話には、民間を代表して大活躍していたわけで、そういった意味からでもまことに惜しい人を亡くしたというのが、町内会長菊地氏の弁である。
同氏の御案内により、雪の大湊総監部を小生も表敬訪問した。総監は73期の松井操海将、幕僚長は75期の阿久根文雄海将補である。
自衛隊ルートにより、巻石蔵が明後日の葬儀に参列してくれるという情報が入り一安心する。
お通夜や葬儀が、没後やや間を置いてとり行われたのは、同地方の郵便局長会議の日程と重ならないようにとの配慮からであり、生前の彼の活躍振りが偲ばれる一事である。その何れにも参列しないでとんぼ帰りしてしまって甚だ申し訳ない次第であるが、それよりも、親しいクラスメートの一人として、少しでも早く駈けつけたい、そして彼もそれを心待ちしてくれているだろうというのが、偽りのない小生の心情だったのである。
後ろ髪をひかれる思いながら、同日夕彼の霊に別れを告げ、大湊駅から再び車中の人となった。それにしても文字通りの大黒柱、そして働き盛り。一家の中心を突如として失った御遺族は、母堂の外に一男二女、それに彼が目の中に入れても痛くない程可愛がっていた初孫。長男の澄君がより成人し、父君のあとを立派に受け継がれる日の一日も早からんことを期待してやまない。畏友小笠原典麿君の霊よ。安らかに昇天されんことを祈る。
あと書き
特にお願いして、長女まつ子さんからの小生宛の手紙の一部を転載させて頂くことにした。
彼女の東京での結婚式に際し、クラスを代表して出席したのが彼に会った最後である。
拝啓 陽春の候となってまいりました。過日の父死去に当りましては、お忙しいところを遠路はるばるお越し頂きまして、又、過分のお玉串、お供えを賜りまして、誠に有難うございました。厚く御礼申し上げます。父も本当に喜んでくれた事と存じます。なにぶん取り込み中のこととて不行き届きの点も多かった事と存じますが、なにとぞお許し下さいませ。
また頂戴いたしましたお写真を葬儀の祭もその後の50日祭を済ませる間も、父の祭壇に飾らせて頂きました。父にとりましては、兵学校、ゼロ戦の思い出は心の支えだった事と思います。亡くなりました後も注文中であったのか、ゼロ戦についての本が届き父のその思いをしのんでおりました。
おかげさまで4月6日に50日祭を済ませました。奇しくも4月6日は父の誕生日、亡くなりました2月17日は、父の弟の祥月の命日でもあり、まるで計算でもされたかのような事実に私共も驚いております。
あまりにも急な事でしたので、未だ信じられないような思いがいたしますが、このようになりましたのも、神様の計らいと考え、プラスの方向へ進ませて頂きたいものと存じます。
祖母もおかげさまで元気にいたしております。
くれぐれもよろしく申しておりましたので、お伝えいたします。どうぞ今後共、よろしくお願い申し上げます。
右とりあえずお礼とご通知まで。 かしこ
4月14日
三山ま つこ
西口 譲様
(なにわ会ニュース43号15頁 昭和55年9月掲載)