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平成22年5月4日 校正すみ

大堀陽一君への弔辞

  五郎

大堀君

かねて君の足腰の衰えを心配してきた我々ではあるが、まさかこのような事になろうとは誠に痛恨の極み、況や奥方はじめご親族の皆様の悲しみを思うと、言うべき言葉が見当たらない。

思えば、私が初めて君を知ったのは、昭和1512月、海軍兵学校新米の四号生徒の時である。近くの分隊の三号生徒だった君の同期生に、Kという相当変った人物がいた。この彼が三号の分際で、上級生の目を盗んでは、我々四号生徒にちょっかいをかける。ちょっかいといっても、食堂で直立し、「食事かかれ」の号令を待っている四号の手の指がたるんでいると、こっそりひっぱたく程度だが、それを二ヤ二ヤ眺めているのが君だった。

そして、3年後の昭和18年9月、その間君は病を得て我々と共に卒業、72期の少尉候補生として、雪の舞鶴で巡洋艦木曾に着任することになった。

お互い初めての艦隊勤務、ガンルームでの生活は本当に楽しかった。当時、木曾は南方で被雷し、修理のため舞鶴でドック入りしていた。

修理完了した翌年3月、木曾は北上して陸奥湾で北方警備の任についていた第5艦隊に合流した。その後の訓練も厳しかったが、実戦の機会は無く、言わば戦前の海軍の延長で、君は砲術土、私は甲板士官配置で共に青春を謳歌した。尤も色気の方は皆無であったが、陸奥湾での艦砲射撃訓練には発令所長として君は大いに活躍した。

そしてア号作戦の開始に伴い、急遽陸奥湾を出て横須賀に回航した木曾は、数百名の陸兵を父島に緊急輸送することとなった。東京芝浦埠頭での乗艦はまだしも、父島への揚陸作業はなかなか難儀であった。

二見湾内に進入碇泊するなどは、敵潜或いは敵機の襲撃を考慮すると不可能なことであった。当然夜間湾外に漂泊、機動艇によるピストン輸送に頼らなければならない。この輸送指揮官としての君の任務も大変であった。何しろ完全武装の陸軍の兵隊さんが、他にも武器弾薬等を携行して、不慣れな海上で、しかも、夜間無灯火での行動である。この陸軍さんを事故らしい事故も無く、全員無事上陸させ、見事指揮官としての任務の完了を報告したときは、艦長も大変にご機嫌だった。昭和19年夏のことである。

その後木曾は呉に回航し、私は潜水学校の普通科学生を拝命したが、君は宿痾再発の為、無念にも艦隊勤務を解かれた。それから半年、20年の早春、私は呂の59潜で、伊豆半島の川奈の沖合を航行した事がある。

当時海軍が川奈ホテルを病院として接収していた。その四角な白い塔を目標に、私は艦位を入れながら、君のことを羨ましく思いだしていた。

然しあの時代、川奈ホテルで療養できたのは結構と言えば結構だが、今考えると、君も内心では相当悩んだことであろう。

いずれにせよ、父上の跡をついで、身を海軍に投じた君ではあったが、生来頑健とは言えない健康状態が災いして、海軍では充分にその本領を発揮することが難しかった。

然し戦後、慶応大学を卒業し、経済界に身を投じてからは、天性の資質が花開いた。東食時代の君の活躍、特に斜陽の砂糖業界にあって、君が発揮し経営手腕は、流石大堀君だと感心させられたものである。

それよりも驚かされたのは、東食在職中に既に将来を見越し、退職後間もなく極めて難しいとされる不動産鑑定士の資格を、事もなげに取得するという先見の明と、その実行力である。

そして本来なら悠々自適の身を、誠に仕事熱心。今回の通勤途次の事故も、人生を燃焼し尽くした正に殉職とでも言うべき、無念極まりない出来事であった。

思えば、昔、人生僅か50年、軍人半額の25年と言われた時代、クラスメートの過半数を喪った今の我々は、些か生き伸び過ぎたのかも知れない。

クラスのことを思えば、君や私と言うのは止めにして、貴様と俺には未だやり残したことが2つある。一つはクラス会最後の幹事を、貴様と俺が2人でやろうという約束であった。

クラス会最後の幕引きは俺がやるのだというクラスに対する貴様の熱い思いから出た言葉であった。俺はご免蒙りたかったが、その熱意にほだされて、ついつい約束させられたのに、勝手に死んでしまうとは少々酷いではないか。もっとも、この約束がご破算になった事は有り難いが、貴様には何時の間にか人を丸め込んで、自家薬籠中のものにするという、不思議な力があった。世間で言う人徳という奴である。一体この悠揚迫らざる大人の風格は何処からきたのであろうか。一つには、恐らくご先祖様のご遺徳でもあろうか。

大堀家は越前大野の出である。戦国の昔、織田信長の猛攻に越前の朝倉義景が一乗谷に破れた際、家臣の堀某が御曹司を生れ故郷の大野に匿った。然しそのまま堀を名乗らせるのは恐れ多いと考え、大堀と称したらしいが、これは世を忍ぶ仮の名で、本当は戦国の名門大名、朝倉家の後裔である。

そんな関係もあってか、君は大野に特別な感情を抱いていた。たまたま私の囲碁仲間に、幕末大野藩名家老の四代目や、実家が大野藩の副本陣だったという人達がいて、近々是非一席設けて大野の話をしようと約束していた。

君も大変楽しみにしていたのに、この約束は実現出来なくなってしまった。私の怠慢で、今となってはなんとも申し訳ないし、私自身も残念極まりない。

然し、我々もそう永くはない。何れこの一席は、そちらの世界で設けることにしよう。それ迄に例の手で、地獄の鬼共を丸め込んで、用意しておいて欲しい。

極楽行の貴様には申し訳ないが、地獄行き必定の俺の為に、是非お願いしたい。ゴルフの話、車の話、他にも色々想い出の山は尽きない。突然の事なので、今は只呆然として居るが、悲しみと淋しさは、これからじわじわ押し寄せて来るだろうが是非も無い。せめて夢の中で君からの電話でも待っていよう。

大堀君よ。暫くの間、さようなら。

(なにわ会ニュース82号8頁 平成12年3月掲載)
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