平成22年5月13日 校正すみ
二谷嘉郎君の思い出
安藤 満
昭和61年9月中旬、野崎、広田、上田の三君と共に、兵庫県西脇市の園田、岡本両君の墓参と御遺族訪問をしたことがある。小生は所用のため翌朝別れたが、3人はその後豊岡市の蕪木君の墓参をし、舞鶴へ回って年初から入退院を繰り返し病気療養中の二谷君を見舞い、金沢、高山を経て家に帰ったという。それから間もなく、9月18日二谷君急逝の報せが上田君からあって驚ろかされた。聞けば16日に見舞いにいった時は、既に意識不明で夫人をお慰めするのが精一杯だったという。
二谷君とは、入校当初の四号時代に16分隊で一緒だった。舞鶴の冬は寒く、木造の第2生徒館では、廊下の掃除は「オスタップ」に「ソーフ」 で、ズボンを膝上までまくり上げ、裸足で水洗いするのが仲々のものであったが、地元舞鶴出身の彼はいつも明るい顔をしてすましたものだった。
また休日ともなると、いつも家に帰る彼がこの上なく羨ましく思われた。一度同分隊の者が大勢押しかけて、お袋の味をご馳走になったこともあった。
いまでも敬愛する小川生徒長をはじめ4人の一号生徒に育まれて、16分隊の四号は1人の落伍者もなく生徒生活を送ることが出来たが、50期の卒業と同時に分隊の編成替えがあり、二谷君とはそれ以後別れ別れになり、卒業後も彼は整備学生、小生は飛行学生と別の途を歩んだため、一度も顔を合わせることは無かった。
海上自衛隊を昭和47年に退職して地元企業の役員をしていた彼と、舞鶴での全国同窓会の折に久し振りに会ったが、昔と少しも変らず頼まれると嫌な顔ひとつせず、とことん尽くす彼の性格がそうさせたのだろうが、参列したクラス一同はことごとに大変な世話をかけたものだった。
平成2年10月、入校50周年を記念し、つつじが丘で53期の戦没者と物故者の慰霊祭が行なわれ、京子未亡人も参列されたが、式後、舞鶴湾での体験航海を終えて宿舎へ戻る途中、郊外の二谷家を訪れて生存者一同が仏前に香を手向けたが、御母堂様はじめ御遺族の皆様にも喜んでいただきなによりのことであった。
その夜の舞鶴クラブでの懇親会には、二谷家から活魚造りの差し入れがあり、戦後最大のクラス会はいやが上にも盛り上ったのであった。顔中を皺くちゃにした明るい笑顔で、「やあー」といまにも二谷君があらわれてくるのではないかとふと思った。
(機関記念誌175頁)