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平成22年5月13日 校正すみ

西川 生士君を偲ぶ

森川 恭男

西川 生士君は平成元年5月1目 堺市の近畿中央病院において逝去された。享年満65歳。西川 生士君とは三号時代7分隊の時、隣の机で並んで教育訓練を受けた。郷里が和歌山で奈良の私とはよく色々なことを話し合った。とに角真面目であった。そして決して弱音を吐かなかった。体育訓練については特筆する記憶がないが理数的な事については非常に綿密で凡張面であった。特に実験データーの整理方法については大いに西川君から学ばせてもらった。背筋を真直ぐに伸ばし、顎を引いて正面から物を見据える端正な西川君の姿勢は彼の全てを表現していた。

昭和18年9月、機関学校卒業後は航空整備に赴任した。彼の志望であったので持味を生かして存分に活躍した。

戦後、西川君は丸善石油に奉職した。丸善石油には先輩の機42期の黒磯武彦氏や46期の森哲二氏等立派な方々がおられてよく彼の噂を聞いた。そして仲々に免状取得に困難な熱管理技術者として第一人者となり自社のみならず、各会社で色々講演したり指導したり大活躍している話を聞いて大変うれしかった。私も色々教えてもらって自分の会社の体質改善に大きく役立たせていただいた。本当に西川生士君に感謝している。

日本の国も変った。特にエネルギー関係産業の変化は激変である。西川君が関西石油鰍フ取締役工場長の時、丁度第一次石油ショックがあった。「灯油よこせ」のわけのわからない市民団体と呼ばれる共産系の人々に自宅に迄デモをかけられて苦労した話、四国の松山石油の取締役工場長の時には、化学繊維原料の原価低減に一銭を単位に血眼になっているのに、デパートで売っている衣料品は百円単位で値上りしている話等々。西川君の様な技術者が日本重工業化の発展のために大活躍し、現在の日本の経済大国を造りあげたと思う。戦中戦後を通じて、本当によく国家社会のために働き尽くした西川君であった。

西川君のゴルフは米国仕込みであった。野崎君と二人にすすめられて私は初めてゴルフをプレーした。枚方のゴルフ場で2人が95を切った、切ったと言っていたのが今も目に浮かぶ。

しかも西川君は借クラブを使用していたと覚えている。野崎君はその後私の目の前でホールインワンを為し遂げたが、西川君のホールインワンを見なかったのが残念である。

西川君が病気になった時、近畿中央病院に見舞いに行ったが、何時行っても、主治医からの説明による自分の病状を克明にメモしたノートを示して私に聞かせてくれた。あの胆力、あの凡張面さには兜を脱ぐ。医者に告知はされなくても自分で病気のことは知っていたと思われる。それにしても、上野三郎君は本当によく西川君のために努力をしてくれたと同じ級友として感謝している。農学博士で抗ガン薬「クレスチン」の発明者である上野君が、研究と勤務そして学会と大変忙しいなかをよく主治医と連絡してくれた御蔭で1年以上延命したと思っている。本当に有難う。

西川君のお骨上げの5月5日、繰上げの初7日が行われ、自宅の霊前にお参りさせてもらった。西川君の奥様が「病院では一番の延命者で牢名主と呼ばれた」と言っておられたが、心の底から上野君に感謝しておられた。

西川君が息を引き取る最後の時、意識が戦闘中のこととまざり合って「しっかりポンプを廻せ」と叱咤命令していたと話される奥様の両眼から熱い涙が溢れ出るのを見て、私はどうすることも出来なかった。西川君が奥様と共に今年の始めに、共に手入れをして春に咲く花を楽しみにしていたという立派な庭に眼をやりながら、西川君が示してくれた「現在唯今を一生懸命に生きる」という事を心に誓いながら故西川生士君の家をあとにした。

  

謹んで故西川生士君の御霊に申し上げます。

君は昭和15年12月、全国から選抜された110名の第53期生の一員として海軍械関学校に入校されました。東舞鶴の躑躅(つつじ)ケ丘の学舎で共に学び共に笑い、そして共に走り廻った青春のあの時がつい昨日の様に思います。

君は極めて責任感の強い真正直な人柄でした。愛国の至情篤く正に海軍士官として最適の人物でした。凡帳面で数字にあかるいエンジニヤそのものでした。君と小生は七分隊で机を並べ、同じ関西人として本当に親友として親しく苦楽を共にして来ました。

卒業後、君は整備学生として海軍航空への道を進まれ、その後若き幹部として太平洋戦争を存分に戦って来られ、愛する故国日本の為に持てる力を全力発揮されました。

戦後も同じ様に新日本建設復興の騎手として丸善石油鰍ノ奉職せられ、工場長等現場最高責任者として日本の国家として最も重要な重工業化への最先端技術者の重責を充分に果してこられました。現在、経済大国として世界に冠たる日本は、君の様な努力家の汗と涙が結晶して成り立っているものです。

その君が第一線を退き、悠々自適の趣味に生きる生活を始められて半年後、病を得られて闘病生活されること2年3ケ月、恵美子夫人の献身的な御介護も空しく遂に帰らぬ人となられました。

 鳴呼無情、しかし生あるものは必ず滅します。唯、生ある時全ての自分を燃焼させて充実した人生を送った君の魂魄(こんぱく)は神仏に必ず加護されていると信じます。

どうか安らかにおねむり下さい。そして残された御夫人とお子様達の幸福を見守って下さい。さようなら

平成元年5月5日

海軍機関学校第53期

同期生 森川恭男

 (なにわ会ニュース61号15頁 平成元年9月掲載)

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