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新見閣下の思い出

澤本 倫生

 新見閣下は父と同じ三十六期であったが、兵学校入校までは全然知らなかった。入校直後の正月に、遊びにおいでと言って下さったので、岡本・中村・藤瀬の三人とお邪魔して、美味しい汁粉を御馳走になったが、このことは岡本が書いてくれるだろう。

(岡本注、私は汁粉をご馳走になった憶えはない。澤本の思い違いであろう。)

新見閣下の訓示が長いので、訓示係は苦労したが、戦後、お宅を訪問した時に、「僕は、三年は校長をやらせてもらえると思って、三年分の訓示を、いつどんなことを話そうかと考えて、こんな風に原稿を作っておいたのだよ」と言ってノートを見せて下さったことがある。綺農な字で大学ノート一杯に書いてあるのを見て、感心した次第である。

最近、父宛ての手紙を何気なく開いて見たら、「倫生君の成績は下から三分の一位の所だが、まだ一学年の初めだからこんな物だが、学年未には上から三分の一位にはなるでしょう」と書いてあった。

四号の最後の頃だったが、「校長室に来い」とのことで、恐る恐る伺うと、「今ニュースで、君のお父さんが海軍次官となったと言っていたが、その後は誰かなと思って聞いていたが、僕の名前が出て吃驚したよ」と言われた。戦後、父も「何の予告もなく、次官の発令を受け吃驚した。まさに青天の霹靂であった」と言っていたから、新見閣下にも何の予告もなかったのであろう。父は当時、第二遣支艦隊で、敵前上陸援助の準備をしていたから、転勤はしたくなかったと日記に書いてあったが、同じ日記に、新見閣下の着任がとても遅いと書いてある。新見閣下の着任がなぜ遅かったかは遂にお尋ねすることができなかった。

終戦後は、海軍関係の人の葬儀で新見閣下に何度かお目にかかったが、「僕がクラス全員の葬儀をすることになるだろう」と言っておられた。又、彼岸に、多摩霊園に行くバスの中で「これからクラスの者六人のお墓にお参りするのだが、あんたの所は家族が来ているから行かないよ」と言われた。とても混んでいたので、すぐ横の若い人に席を譲るように声をかけたら、「いいよ、いいよ。僕は平気だよ」と言われて立っておられた。

八年前のことだが、電話で「一寸家に来てくれないか?」とのことで御邪魔すると、クラス会幹事をやれとのことだった。その申し継ぎの見事なことは驚くばかりで、記録や金銭出納簿も実に丁寧に書いておられる。とてもそんなに出来そうにないのでお断りしたが、是非にやれとのことでお引き受けした(当時、九十八歳であられた)。その翌年、連合クラス会で、私が高松宮様に御挨拶をしようと思って近付くと、新見閣下が「クラス会幹事を若い者にやらせることができてホッとしました」と言っておられた。なぜもっと早くお引き受けしなかったかと悔やまれた。この九十九歳の出版祝いで、閣下がお礼の挨拶をされたが、特にお世話になった方として、五人の方の肩書きと名前を述べられたが、ややこしい肩書きでも一回もメモも見ず、すらすらと話されたことを覚えている。

井上成美中将が有名になった時に、「井上さんに対する御意見を聞かせて戴けませんか」とお尋ねしたら、「折角、世間で良いと言っているのだから、あれで良いではないか」と言われた。何かあるなと思って、重ねてお尋ねすると、「実は十五年に、私が教育局にいる時、海上防衛大学の設立を具申したのだが、大臣、次官、総長、次長の内諾を得たのに、なかなか出て来ない。調べてみると、井上君が握っていたのだよ。結局つぶされたが、翌年、井上君が機雷学校建設を具申したのだよ。機雷は海上防衛のほんの一部にしか過ぎないのにね」と話されたことがある。

私にだけ話されたことであるが、「僕の背がもう二寸高かったら、僕はもっと成績が良かったと思うよ。背が低いのを無理して頑張って、身体を壊して入室する度に成績が下がった」と言われた。それを聞いた時、和泉正昭は大した者だったのだなと思った。

新見政一(にいみ・まさいち)氏略歴

明治20年2月14日 農業・醤油製造業新見千五郎の二男として生れる
忠海中学
明治41年11月 海軍兵学校卒業(36期)
明治43年 1月 少尉
大正3年12月 大尉 砲術学校高等料卒業、香取、伊吹、
河内分隊長、海風乗組、砲術学校
大正 6年12月〜 8年12月 海軍大学校甲種学生、
大正12年12月〜15年 2月 イギリス駐在、
昭和 4年11月 大佐、大井、八雲、摩耶艦長、海大教官
昭和10年11月 少将、呉鎮参謀長、2艦隊参謀長
昭和12年1月〜11月 秩父宮随行訪英
昭和12年12月 教育局長
昭和14年12月 中将 海軍兵学校長
昭和16年 4月 遣支艦隊長官
昭和17年 7月 舞鶴鎮守府長官
昭和19年 3月  予備役
平成 5年 4月 2日 満百六歳で逝去

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