新見校長閣下の近況
澤本 倫生
我々が兵学校に入校した時の校長閣下は、私の父頼推と同じ36期である。72期では私と中村(元)、渋谷了、藤瀬の四人が36期の子弟で、全員生存して居る。昭和16年の正月には、四人揃って校長官舎で御雑煮とお汁粉のご馳走に預かった。
戦後36期は、初め佐藤市郎さん(クラス・ヘッド、中将で退官された。岸、佐藤両首相の兄)が幹事でクラス会を始め、間もなく父が幹事を勤めた。父の死後、新見さんが幹事を引き受けられ、一昨年私にバトン.タッチされる迄クラス全員の世話をなさって居た。十数年前から、クラス会に子弟の参加を呼び掛けられ、中村と藤瀬は割に早くから参加して居た。私には継母の澤本未亡人に遠慮されて、私に声を掛けるのを遠慮して居られたが、六年前から私にも出席する様御声が掛かった。昭和59年から、幹事を私にする様にと御話しが有ったが、新見さんが余りに見事に幹事をされて居られるのと、新見さんで無ければ、永続出来ないと思い辞退申し上げて来た。昭和61年のクラス会で、議事として幹事の交替を審議するとして、私に御指名なさったので、多大の御指導御捜助を頂く事を条件に引き受ける事とし、九月に中村と砧の御宅を訪問し、申し継ぎを受けた。
実に几帳面に整理された申し継ぎ書類を受けて、改めて大変な事を引き受けたと痛感した。
然し、其の後の連合クラス会等で、「私は幹事を若い者に渡してほっとしたよ」と嬉しそうに話しをされて居る閣下を一寸離れた所から見て、もっと早く御引き受けするべきだったと痛感した。
昭和51年に、90才の御祝いに68期から72期迄の有志からと言う形で、毛布を御贈りして以来、年に一回位のわりで、砧の御宅を訪問して居たが、何時も「十一時頃釆なさい。」と言われ、お昼とおやつを御馳走になり、昔話を伺った。四時頃になり、御疲れでしょうと言って失礼しようとすると、
「君達若い人と話すのが楽しみで其の晩はとても良く眠れるのだよ。もう少し良いだろう。」と何時も引き止められた。昔の事を御聞きすると、「ああ、ジェットンランド海戦はねぇ1900年の何月何日にね。ジユリコーがこう来て、・一方はこう来て、・・・・」と実に細かく年代、時間、関係者を淀み無く御話しされ、更に関係資料を示して下さった。其の記憶の正確さと、豊富さにはびっくりした。
新見閣下が非常に強調されたのは、大正11年に大戦後のドイツの調査を命ぜられた報告書で、当時の次官に激賞されたとの事である。唯、残念なのは、其の次官が間もなく急死され、報告書は殆ど読まれなかった由である。「これからの戦争は、国家総力戦となり、途中での講和はなく、一方が無条件降伏するか、政府が消滅する迄続く、日露戦争のように、誰かに仲介を頼む等は有り得ない。それから、海上防衛が極めて大切で、是を下手にやれば、国家滅亡に繋がる。」と言うもので、同様の趣旨で、海軍大学の時に、南雲さんに協力して纏め上げた物が有るとも言われた。
井上大将の事で御訊ねしたら、「まあ現在皆が、米内−山本−井上として立派なコンビだったとしているから良いではないか。」と言われ、更に個人としての御意見はと訊ねたら、
「昭和8年(9年?)、僕が総務部一課長で、海上防衛を勉強する学校を造る事を提案し、大臣、次官、総長、次長の内諾を得たのに、井上君が軍務局→課長で何故か反対し提案を葬ってしまった。そして二年後に、機雷学校の創設を提案した。僕の言った海上防衛大学は、潜水艦等を含めた海上輸送防衛を含め、機雷だけでは無かったのに」と残念そうに言われたのが印象に残って居る。
こんな頭脳のシャープな方は惚ける事は無いのだと思って居たが、昭和62年2月始め、満百一才の誕生日(2月14日)を直前にして、記憶の一部がとぎれてしまわれたのである。この年、1月の半ばと、31日に、私は電話で「今度のクラス会(5月と10月の第二木曜日が定例だった。)に、閣下の経験談で皆が喜ぶのを話して頂きたい」と御願いしたら、「それは良いが、私が元気に出席できたらの事だね。」と言われた。それ迄こんな事は無かったので、不思議に思ったのだが、何か予兆が有ったのであらうか?
2月12日に散歩に出られて、迷子になってしまわれたのである。
御近所の関東中央病院に御入院になったが、医者の言うことは余り聞かれず、例えば医者が握力計を渡しても握ろうとせず、握力ゼロばかり、そのくせ三十六期の未亡人や我々が行くと、喜んで強く握手されたりした。御見舞いに行くと、突然「その時、向こう側はね、ずっと大勢で、こっちは私と二人だけでね・・・・と言った様な事だったんだよ。」と言われた。
昔の何か重大な会議の説明をされているらしいが、さっぱり判らない。是を五分毎位に何度も言われる。
其の後、近所の胃腸病院に転院され、間もなく東京多摩病院に転院されたが、多摩病院では余り余計な手当てをしないので、反って是が良いらしく、少し御元気になられた様である。本年5月5日に中村と訪ねた時、「目が悪いから顔を良く見せてくれ。」と言われ、大きな声で「沢本で御座います。」と二・三回申し上げてやっと御判り頂けた。
中村は、「あ、君はわかる。」と言われて、「遠い所を大変だったろう。」とも言われたので、完全に御判りになったと思われる。この時も、暫らくして、いきなり「その時はね、向うが大勢で・・・・」と訳の判らない事も言われたが直ぐやめられ、何度も「良かった。良く来た。」と言われた。
始めの関東中央病院の時から、付き添いの人が気に入り、其の人も「生きている限り、何処までも看護させて下さい。」と言って居るとかで、とても気のあった看護をして貰って居る様である。此の付き添いの人の話しでは、ニュースは補聴器を付けて聞かれ、昭和天皇の崩御も御判りになって居たとの事である。
私が写真を取ろうとしたら、「一寸待て」と言ってエプロンを外し、ポーズを取られたり、嬉しそうに笑ったりなさった。御暇しよぅとしたら、「送って行くよ。」と言って、一人でベッドを下りて、サッサとエレベーター迄送って下さった。今、右の目は全く見えず、左も微かにしか見えないそうで、耳も右が僅かに聞こえるだけのお気の毒な状況であるが、内臓は至って御健在で、用便も他人の援けは必要無く、しくじる事は全く無いそうである。
本年百二才で、御記憶の一部が崩れて居られるだけである。今海軍の最長老として、まだまだ御長寿を保たれることを希望して止まない。