新見政一閣下百歳御長寿祝いの会
(併催)富永謙吾氏出版記念祝賀会
豊廣 稔
去る六月十六日(火)1430頃、私は市ヶ谷で地下鉄をおり、地上に出ると市ヶ谷橋を渡り、外壕通りに泊って左折し、最近完成したばかりのグランドヒル市ヶ谷(新市ケ谷会館)の方に向って歩いていた。二人の海軍大先輩の祝賀パーティに出席するためであった。
私の数歩先を、濃紺の背広に痩身を包んだ半自の紳士が一人歩いている。多分自分と同じ目的で新市ケ谷会館への道を急いでいる元海軍軍人とみた。年の頃はは私とそう違わない。一つ二つ先輩かな、あるいは逆に一つ二つ後輩かもしれない。それがなんとなくわかるのだ、お互い共通するなにかを持っている。しかし、それがなんであるか判らない。その紳士はやはり新市ケ谷会館の車寄せの方に入っていった。私は別な方向から入館したが、紳士の方はもう誰かに出会ったらしく、「ヤアヤア」と手を上げているのが望見された。
新市ケ谷会館は旧会館と並んで建っており、言うまでもなく防衛庁共済組合の会館で、地上八階、地下二階の建物で旧会館と較べると二まわりぐらい大きい感じがする。その三階に当日のパーティ会場“瑠璃の間′と戦史講演会が行われる珊瑚の問がある。因みに八階から四階まではホテルになっており、二階の全部と一階の一部は結婚式場ならびにその附属施設だ。特に一階ロビーは天井が高く、たっぶりした立体空間を思い切りぜいたくに使い、気品と格調のあるただずまいになっている。入口を入るとすぐ左側に大きなエスカ
レーターがあり、私はそれにのって三階へ上がった。
受付で受付カードを提出した。受付カードは主催者の方からあらかじめ送付されてきており、出席者が名前や期別や住所、電話番号等を記入して名刺のかわりに差し出すものであった。カードにはその他に、主賓のお二方に対するお祝詞など書くようにという欄がもうけてあったので、次のように記入した。
「新見政一校長閣下ならびに富永謙吾先輩、本日は誠におめでとうどざいます。心よりお祝い申し上げます。お知らせを受け、犬海軍の集いのような気がしましたので思わず馳せ参じました」と。
私は毎年水交会主催で行われる海軍の集いにも又、時折行われるオールネーゼーの会や連合クラス会”にも残念ながら殆んど出席したことがない。別に特別の理由があってのことではない。今まではただなんとなく、まだ出席のチャンスはいくらでも残されているとタカをくくっていたところがある。しかし、昨今はもうあとがそうたくさんない.という感じ方に変ってきている。従って、昨年沢本などが奔走して行われた新見校長閣下の白寿のお祝いにも出席し損なったことを残念に思っていた。いつも石隈教官(現、水交会長)から新見校長の矍鑠たる御健康ぶりはお話を承わっていたので、今回はぜひ共、直接、校長閣下の謦咳に接し、半世紀前、昭和十五年十二月一日、「諸子ハ今回宿望ヲ達シ全国幾千ノ志願者ノ中カラ特二選抜セラレテ本日茲ニ海軍兵学校生徒ヲ命ゼラレ目出度ク入校シタノデアル。諸子ノ本懐喜悦ハ固ヨリノコト諸子ノ父兄方ノ満悦ノ程モ察セラレ校長ハ茲ニ満腔ノ祝意ヲ表スルモノデアル・・・」との校長訓示を受けた際の感激を新たにし、今や有形無形、旧海軍の頂点に立たれる新見校長閣下の今後益々の御長命を祈念したかったからである。
同時に『定本太平洋戦争という畢生の名著をこのだび刊行された富永謙吾氏(54期元大本営海軍報道部員・防衛研修所戦史編纂官)にも海軍の大先輩として敬意を表し、ぜひ拝顔の栄に浴したいという気持があった。
祝賀パーティは1500より、瑠璃の間で行われ、一方、講演会は1300より1430まで、大井篤(51期)、野村実氏(71期)などの戦史専門家の講師により既に珊瑚の間で行われていた。私は講演会の方は、都合により出席できず、パーティの方のみ出席した。当日は300名の出席者があったという。そのうちクラスの出席は、13〜14名だった。こういう横断的なあつまりでは、見知った顔が少くなるので自然クラスの者は同じところにあつまる傾向になる。同日も中央近い丸テーブルを囲んで見知った顔のみが集ってしまった。
やがて正面入口の方にスポットライトが当り、パチパチと拍手が湧き起った。主賓のお二方の御入場である。中央正面に金屏風と演壇がしつらえられてあり、その前がメインテーブルになっていた。新見閣下と富永先輩が正面に並んで腰かけられていた。新見閣下の右隣一人おいて保科善四郎閣下(41期元衆議院議員、現国防協会々良)がおられる。保科閣下は41期だから、新見閣下(36期)に較べれば五つ下ということになり96才になられる筈。こちらの方も大したものだ。しかし本日は主賓が百才の新見先輩であるので、先輩に較べたらそれでも少し若いといわれるに違いない。本日は保科閣下は主賓に対し、祝辞を述べられる立場にあった。「新見閣下は私の海軍大学時代、教官で一緒でした。お声がびっくりする程大きい。海上で鍛えられた声は少しも衰えを見せていない感じ、高い天井にビンビンと響くようであった。先に開会の辞を述べられた発起人相談役代表、寺崎隆治氏(50期日本郷友連盟)のお声がまた最初から大きかった。だから祝辞を述べられる方々の声が全部大きい。さすが″大海軍の集い″こういう声の大きい会合は近頃あまりみられない。なんだったらマイクなんかはずしてしまってもよい。こういう気がひしひしとしてきた。今にもどこからか波浪の音がしてきそうな、潮のかおりがそこはかとなくたちこめてくるような雰囲気だった。
石隈水交会長(65期)のご挨拶は、勿論、明快そのもの、並みいる人を引きつけずにはいない。「新見校長閣下の御長寿の秘訣は、散歩と英語の原書に親しむこと、この二点であると、校長御自身はおっしゃられます。又、保科閣下は新見閣下の御人柄、御人徳が御長寿の原因といわれました、しかし私が考えまするに、もう一つ理由がございます。それは戦前の御研究は申すに及ばず、閣下は戦後もずっと戦史研究をライフワークとして続けて来られました。そのことが閣下の御長命の秘訣の一つになっていると思います・・・・・」と。
(注)新見校長は昭和36年から海上自衛隊幹部学校で戦史を講義されていたが、割り当てられた時間が少なかったので、それを補うため参考資料の作成配布を思い立たれた。その結果が「第二次世界大戦、戦争指導史」の御編纂・御出版につながっていった。
新見校長は大きな花飾りを左胸高につけた濃紺の背広に小柄な体をつつみ、ステッキを片手に、メインテーブルに端然として着席されていた。補聴器を耳にして、次々に述べられる祝辞にじっと聞き入っておられる風であった。色白、豊頬、御所人形のように・・・・。
まさに溜息の出るような「百歳」であられる。
九十才を過ぎると人の顔は、やや人間離れした、よくいえば神々しい顔になるのが普通であると考える。しかし、新見校長の場合は御足がほんの少し弱くなっておられる(他人支えて貰った方が歩きやすい風)ほかは、われわれが兵学校入校時仰ぎ見た校長閣下とあまり変っておられないようにお見受けした。
バリカンで短く刈られたお髪は、上方が少し薄いのはやむを得ないとして、サイドの方は髪の色が青々とした感じにお見受けした。色白なので特にそういう気がしたのかも知れない。
最後にお二方の御挨拶となった。新見校長は支えられて壇上に上られた。主催者が椅子をすすめたが、校長はマイク片手に、終始立ったままで挨拶された。新見校長は記憶力抜群、祝辞を頂戴した方々の名前を一人一人フルネームであげてお礼をいわれる(とみに記憶力のあやしくなった小生など恥しいくらい)
「富永君のこのたびの御著作は不朽の名作です。二十年の歳月をかけて『定本」の名を冠するにふさわしい著作をものされた富永君の御努力に対し満腔の敬意を表します。富永君が防衛研究所戦史纂室に勤務されておられる時、私は再三に亙り、富永若から教えを受けました。私の「第二次世界大戦戦争指導史」は全く、冨永君の側面からの御協力あってこそ可能でありました・・・・」と、述べられれば、富永氏は後から演壇に達「新見閣下のお話は全く逆でございまして、御指導をいただいたのは、私の方でどぎいます。私が今回の著作のことを考えはじめました二十数年前、閣下は既に七十代であられましたが、幹部学校で精力的に戦史の講座を受場合は、持って、教鞭をとっておられました。その頃からずっとどれほど閣下に戦史に関する教えを頂戴したか判りません・・・・・」
相手の功績をほめたたえ、一点たりとも自分の方をひけらかすようなところがない。全くすがすがしいお二方のご挨拶であった。
「新見閣下の御挨拶は二十分になんなんとする長いものであったが、その間微動だにせず立ち続けられたのである。
そのあとアトラクションなどが入り、漸次、宴たけなわになっていった。終始司会は茂木明治氏(68期寿産業)であった。
茂木氏は石隈水交会会長のお話の時、特にじっと耳を傾けておられたが、考えてみると石隈教官はたしか茂木氏など68期の一号生徒であられた筈。四号はいつまでも一号生徒にある種の敬意の情を抱く。そういっては失礼になるだろうか。
全く、当日は、最初に私が感じた如くまさに″大海軍の集い″というにふさわしい意義深い会合であった。海軍のいいところを残す意味からも、若いクラスの範疇に入るわれわれはこれらも大先輩方を誇りとすると共に、大先輩方に負けないように頑張らねばならないと思うのである。