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平成22年5月11日 校正すみ

中西 健造君逝く

大村 哲哉

 11月21日出先から帰ると加藤 種男夫人から訃報が入っていた。確認すると容態が急変し、亡くなったとの知らせがあり、加藤は能登川へ急行したとのこと。呆然とした。

 10月の関西なにわ会の宇野の返信に「中西君と一緒だと大丈夫ですが、彼も食事が進まず残念です」とあった。気になり石井と10月9日能登川病院に見舞う。食事が出来ないため、鼻腔にパイプをいれ点滴していたが顔色もよく、夫人は新聞も読みだしたと喜んでおられたので2時間余りも話し込んで安心して帰った。夫人は病室に詰めきりで連絡もとれないので、石井と11月29日再度見舞うことにした矢先の訃報であった。

 22日お通夜に参るべく石井と5時過ぎに伺うと法衣を纏った宇野が読経中であった。祭壇には大尉の飛行服、飛行帽の遺影が飾られていた。中西の心を汲んだ祭壇である。

 法名は「紫雲院釈覚了」大空を紫電改で雄飛した中西がかねて自分できめていた法名である。[]は大変良いと誉められたと言っていたのを思い出す。お通夜、弘誓院の住職の荘重な読経、本願寺派と大谷派の違いはあれ、同じ真宗の門徒であるが耳にした事のない経文、石井も感銘を受けたと言っていた。その後、お参りに来られた町内の方々の読経。住職は法話の中で中西に寺総代として大変尽力してもらったと述べられ、ここにも彼の人望がうかがわれた。23日葬儀を手伝っておられた婦人が「健ちゃんの家のすぐ隣だ」と言われた。齢80にしてなお「健ちゃん」と呼んでもらえる。今最も薄くなっている人情だが、彼は隣人に対しても心温かく接していたのだろう。
 葬儀、渡辺が持参した軍艦旗を棺(ひつぎ)にかけ飛行服姿の遺影、海軍葬の感じである。ご遺族と共に棺の中に花を飾り最期のお別れをする。出棺、愛孫和泉君の吹奏するトロンボーンの「海行かば」の中、航空自衛官制服姿の愛孫真理さんが遺影を抱かれ、棺(ひつぎ)は霊柩(きゅう)車に運ばれた。海行かばの音には参列のなにわ会会員目頭をあつくした。火葬場まで送りお骨も拾わせてもらい本当に最期の別れとなった。
 こよなく海軍を愛し、誇りとした中西、なにわ会も大変お世話になった中西を失う事は残念で淋しい限りである。しかし素晴らしい家族を持ち、己の志を伝え、隣人にも親しまれた彼は「日本人は斯くあるべし」と示してくれた実に素晴らしい生涯を送ったのではなかろうか。見事な生き様であった。
 誇るべき友 中西少しでも近づきたいものである。
 葬儀参列の会員は東京方面からもあり、16名、中西を惜しむ思いは皆同じである。

弔 辞 

 中西、こんなに早くお別れの言葉を述べねばならぬとは、数次の大手術にも耐え頑張ったのに淋しい、残念だ。故人を中西と呼び捨てにする事を同期の桜の一人としてお許しください。
 昨秋北海道で第28分隊会を開いた時は幹事をすると明言されたが、今春体調に不安があるので幹事を辞退したいとの電話をもらった。かくある事を思い迷惑のかからぬよう配慮があったのか、今思えば貴方らしい気配りと頭が下がる。
 中西、同期の桜とは言え貴方との親しい出会いは第28分隊の一号となった時である。生徒時代から真摯()で几帳面であった.中学時代にボートを漕いでおられた関係で短艇係りをしておられたが、短艇競技で二号中心の第二クルーが優勝し一号中心の第一クルーが敗れた事をずっと悔やみ続け、この年になってもしばしば口にされたひたむきな心、第一クルーの一員として慙愧(ざんき)に耐えない。
 

 昭和18年江田島を巣立つや、私も同じように飛行学生として霞ヶ浦航空隊へ、19年7月神の池での戦闘機の学生を終え、貴方は局地戦闘機雷電部隊である大村の352空へ、私は紫電の横須賀空の戦闘701飛行隊へと別れて戦うこととなった。しかし貴方との絆(きずな)は強く、私が比島から松山の源田司令率いる343空の戦闘701へ帰ったが貴方もまた343空の戦闘301へ転勤してこられた。残念ながら私は20年5月米機に撃墜され入院中であったので,翼を連ねて共に戦うことはなかった。紫電改で本土防衛に活躍されたことは今に戦闘301の中心として隊員の人望の厚いことでうかがい知れる。素晴らしい友を持った事を誇りに思う。

 戦中の勇者はまた平和時の勇者でもあった。戦後入社された三原汽缶工業でも役員として大活躍された。また家庭人としても指標となる人であった。母堂のご存命中はその意を体して仏前の讀経を終えてはじめて食事する等孝養を尽された。手本とするご夫婦でもあった。常に揃って会に出られ、これも本年五月の戦闘機会が最後になってしまったが、万一独りで出られた時は夜必ず電話する愛妻家であった。病をえて入院されてから、奥様はずっと病院で看取られ、10月9日お見舞いに伺った時の奥様の看病振り見て、この妻にしてこの夫あり、この夫にしてこの妻ありの感を深くした。それだけに奥様はじめご家族の悲嘆はいかばかりかと察するに余りある。

 中西、これからはどうか最愛の奥様はじめご家族を天上からお護りください。 こよなく海軍を愛し、国を思った私の誇りとする友、中西、なにわ会にも格別の尽力本当に有難う。どうかゆっくりとお休み下さい。 合掌
 さようなら中西、中西さようなら 帽ふれ
  平成15年11月23日

海軍兵学校第72期代表  大村 哲哉

(なにわ会ニュース90号8頁 平成16年3月掲載)

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