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平成22年5月11日 校正すみ

中西君 篤い友情有り難う 

          向井 壽三郎

2003年11月21日(金)。この日私は江田島同分隊一号だけの昼食会を東京駅近くのすし屋でやることになっており、朝九時過ぎに家を出た。メンバーは笹川、新庄、辻岡に私の四人。その席で、新庄から中西が肝臓がんでかなり重篤な容態だということを聞かされた。6月参拝クラス会で会った時の彼はとても元気そうだった。肝臓がんというのも初耳で、内心新庄の情報を素直に信じることができなかった。夕方家に着いて玄関に入ると、家人の声が飛びこんできた。

「大変なことになったわよ」。これで私の一()の望みはあえなく絶たれた。私が家を出て間もなく「石井さん、加藤さん、それに中西さんの息子さんからも電話を頂いた」という。

江田島では中西との縁はほとんどなかった。彼は3年間すべて偶数分隊、逆に私は奇数分隊ばかり。飛行学生時も霞空、神ノ池を通じて近くにいたことはなかった。それが、昭和20年4月初め、共に343空 401飛行隊に赴任したのを機に、その後生涯親交を結ぶことになる。

401飛行隊は343空の練成部隊であった。教官役には南方戦線から引き揚げたベテラン搭乗員がしばしの休養を兼ねてその任に当たっていた。第一線で使える目途のついたものから順次、九州の大村基地に展開していた343空本隊の欠員を補充する仕組みであった。中西と私が赴任した当時、401は四国徳島基地で訓練を始めたばかりであったが、5月には松山へ移動した。隊長は操練出身の現役最古参のT大尉。その隊長の指示のもと、中西と私が、二人で相談しながら訓練計画を立て、実施していた。

中西は6月初め、部下数名を連れて大村本隊へ転出、私は8月15日、7、8名の下士官搭乗員と一緒に汽車で大村に向けて松山を出発、今治で連絡船待ちの間に天皇の終戦の勅語を聞く。その後、ずたずたに寸断された汽車を乗り継いで、4日がかりで大村本隊に着いた。そして、その2日後に「皇統護持作戦」事件に直面する。

これについては、本誌84号にコレスの加藤種男が総括的かつ詳細に述べており、端っこにいた私がつけ加えることはない。ここでは、あの夜の私個人の擬似的特攻体験について、中西と対比させながら書き留めておきたい。

事は8月20日(ひる)、搭乗員・准士官以上を前にしてなされた源田司令の次のような趣旨の発言で始まる。

「私は、故国が敵の軍靴に踏みにじられるのを座視することは出来ぬ。護国の大任をはたせなかった責めを負い、私は今夜8時自決する。行を共にしたいと考える者は、同時刻健民道場に集合されたい」

前に触れたように、私は2日前に大村に着いたばかりであった。源田司令は中央の情勢を確かめるため上京中で留守。志賀飛行長には着任時、指揮所で挨拶をしただけで、個人的に言葉を交わしたことはなかった。従って私の顔見知りの士官は、クラスの中西と大村だけであった。以前。343空にいたクラスの渡部幸博、橋本達敏、川端 格、上嶋逞志、大塩貞夫の諸君はすでに戦死していた。

私は動揺していた。自決組に加わるべきか、それとも・・・と。終戦の詔勅が下る前だったら無論迷いはなかった。現に前の332空で特攻を志願するかどうかを()かれたとき、熱望と書いてした。しかし、戦争が終わった今、話は別であるように思われたのだ。

中西と大村は、私には何も言わなかったが、8時には当然のこととして健民道場へ行くものと考えているようだった。ベッドの上にあぐらをかいて気楽な姿勢でコルト(拳銃)の分解掃除をしたりしていた。そんな彼らを前にして、私は、自分の胸中をおしかくして平静を(よそお)うのに精一杯であった。

8時、指定された健民道場には、20人ほどが集まった。ややあって司令と飛行長が入ってきた。会場が静まったところで、飛行長が口を切った。「もう一度念をおす。考え直して、この場を去りたい者は去るがよい」と。

この声に応じて一人の士官がうつむきながら出入り口の方へ歩いて行くのが見えた。最後の機会だと思うと、私の心臓はノドから飛び出さんばかりに高鳴っていた。しかし私は金縛りにあって一歩を踏み出すことができなかった。骨がらみになった兵学校出身者としてのメンツが、死よりも大切なものになっていたということだろう。私は今もあの時、退場した人の勇気に敬意を表する。

私が自決組に加わったのは、右のような消極的な理由からだけではなかった。能動的な動機も一つあった。 私はクラスの小松 弘と霞空、神ノ池ともに同室であった。その小松は19年12月13日、第2金剛隊特攻隊長として出撃、散華した。20年の初頭、隊内だったか町の映画館だったかで見た日本ニュースに、彼の出発時の映像が出た。彼は、落下傘バンドはおろか、救命胴衣も着けていなかった。しかも、独特の指先が耳に届くか届かないかのシャキッとした挙手の礼をしながら、ニッコリ笑ってさえいた。その時私は、「小松、俺も必ず後から行くからな」と誓った。この誓いを私は忘れていなかった。

寄り道をしてしまったが、本題に戻る。

一昨年2月、帰郷からの帰途、中西宅に一晩泊めてもらった。そこで彼に見せてもらったものがある。例の8月20日夜、源田司令と行を共にすべく参集した24名の連判状である。正確には連判状の実物大のコピーで、昭和56年グループの解散式が行われた折、メンバー全員に配られたものである。中西は横長(よこなが)の連判状を掛け軸様に表装して、終りの余白にあの夜の自分の心境を回顧する文章を毛筆で認めてあった。酒の席でのこと、文章の中身は大方忘れてしまったが、迷いは無かった、という趣旨の文であったことをはっきり(おぼ)えている。大村も中西と同様の境地にあったものと思う。

アメリカの占領政策の推移に伴い、我々源田部隊の出る幕は無かったが、あの夜のことを思い出すたびに私は中西たち、あそこに集った人たちの進退の(いさぎよ)さに感嘆する。自分が不様であった分だけそれは際立つ。(この問題は我々職業軍人の戦争責任にかかわる問題であって、武士道の死の美学のようなものに(わい)小化してはならぬと自戒をこめて思う)

 伊藤編集長から与えられた紙幅はとうに過ぎた。あとは、はしょって先を急ぐ。

あの夜からほどなく、中西は整備長の古賀さんと一緒に宮内省に潜り込んだ。中央、わけても皇室をめぐる情勢を探るのが2人の役どころだった。しかし、宮内省には一年かそこらいただけで、郷里能登川に帰り家業についた。皇統護持作戦発動の危機は遠のいたとの源田司令の情勢判断によるものであろう。

中西は父親を助けて家業に励むが、昭和37年には製麦業の将来に見切りをつけ、コレスの野崎貞雄、加藤種男の世話で水処理関係の三原汽缶工業に就職した。一家をあげて本社のある川崎市に移り住んだ。定年まで常務を勤めた後も、()れて数年監査役となり、能登川から月に何回か出勤する生活を続けた。野崎によれば、オーナーの個人企業だった三原工業を近代的な会社に育て上げたのは、中西の力に負うところが大きいという。

能登川で製麦業を営む中西宅に女房ともども泊めてもらって歓待にあずかったことがある。お嬢さんが小学校に上がるか上がらないかの頃で、日本舞踊を見せてもらった。川崎に越してきてからは、家族ぐるみの付き合いの度は一層深まった。といっても、一方的に私が恩恵を受けることの方が多かったが。

昭和50年から20数年間にわたって、中西、石井、相澤と私の戦闘機出身4人は、毎年秋、鎌倉の佐藤病院に2泊3日のドック入りをした。なにしろ、相澤、石井といったわがクラスの演芸部長2人を擁する贅沢なメンバーである。はしやぎはしなかったが、中西は何時も「和」の中心であった。私ども4人が80過ぎまでなんとかやってこられたのは、ドック入りそのものの効用もさることながら、この2泊3日間におけるストレス解消が、大いに与かって力があったのではないかと思っている

もう20年近くも前のことになるが、嘗ての401飛行隊長Tさんの葬儀に際し、中西ははるばる熊本県八代まで出かけている。ご舎弟との関係があったとは聞いていたが、それにしても信義に(あつ)い彼ならではのことであろう。

中西ご夫妻のおしどり振りはクラス中でだれ知らぬ者はいない。また、彼が長男として、御両親やご舎弟たちに対して、どのように身を尽くしてきたか、問わず語りに本人から聞いているが、立ち入ったことをここに記すのは慎みたい。その代わりというわけではないが、頭の中におのずと浮かんで来る一連の文言があるので引用する。

「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ・・一旦緩急アレハ義勇公ニ奉ジ・・」

何時どこででも通用するだろうこの人倫の道を、中西はほぼ完璧に全うした男だったのではないか。

80を越えてようやく見えてくるものがある。10年ぐらい前までは、生と死の間には無限の隔たりのある全く異次元の世界であるように思っていた。ところが、最近ではそれが隣り合わせで、一足飛びで行けるところのように思えてきた。朋友の死に際しても、涙腺のしまりがなくなり、人前できまりの悪い思いをすることもあるが、一方では、軽い気持ちで「俺も近いうちに行くから、その時は道案内を頼むよ」と胸のうちでつぶやいている。無宗教の俺としたことが、とおかしくもなるが、歳をとり、先が見えてくると、人間誰でもがこんな「自然教」を持つようになるのかもしれない。そして次第に旅立ちへの心の準備ができてゆくのだろう。

 

中西君

これまでの(あつ)友情 ありがとう

なべて君は 余りにも 立派すぎた

 どうか これからは 周りを気にせんと

 ゆっくりお休みください

 (なにわ会ニュース90号10頁 平成16年3月掲載)

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