平成22年5月11日 校正すみ
中田隆保君 交通事故で急逝
新庄 浩
8月21日、加藤兄から中田君奇禍の訃報あり。23日、お通夜に参ず。ご遺族に対しお慰めする言葉を知らず。かつて幾度か死線を経た旧友の突然の死に、口惜しさ、残念さ、で感無量のわれわれの心中を知らず坊主(失礼)さかんに法話をなす。
8月24日午後1時、昔懐かしい奥沢九品仏、浄真寺において葬儀が始められた。受付のテントの中で読経の声と、これに合わせるかのように木立に鳴き続ける蝉の声を聞きながら、私は旧友を失った悲しみにひたると共に、人間の運命について又々考えさせられていたが、池田兄の弔辞が始まり、江田島時代、また戦時中の中田君の活躍振りをしみじみと聞いていると、私にはさらに中学時代、あるいはまた戦後の苦難時代の思い出が走馬灯のように重なっては消え、重なっては消え、感慨つきる事がなかった。
思い出せば30年の昔、君は父上の影響を受けてか、中学時代小躯ながら独特の風格をすでに持っていたようだ。当時の府立8中は校長の方針もあって、相当自由な校風、いわば軟派に近い方であったが、君は小柄な壮士とでも謂えるような真面目な硬骨漢的中学生だった。父上が亡くなられたのもその頃だったと思うが、君は「おやじのように海軍の駆逐艦乗りになるんだ」といったのを憶えている。8中卒業後、共に浪人生活をしながら海兵の受験準備をし、家族に見送られ一緒に東京駅を立って入校した江田島生活はクラスの諸兄におまかせするとして、戦後22年頃、伊豆での百姓生活を終り、東京に帰って来た私は、君の帰京を知り久し振りに再会した。
君は両手の重傷が影響したか、あるいは敗戦後の世相に失望したのか、往年の磊落さがいささか衰えたような気がしたが、妹の富久子さんにスプーンで食べさしてもらっている美しい兄妹愛に、寧ろ激励されたのは私の方だった。その後、お互いに勤め先がいろいろ変り、所謂浮世の波にもまれた頃は、会えば酒となり、話題は尽きず、深更に及んだことも幾度かあったが、君が泣き上戸になりだしたのもその頃だったと思う。
酔うにつれ話し方が早くなり、話題によっては涙ぐみ、鼻水をすすりながら益々感激してくる君の姿は今もありありと目に浮かぶ。妹さんの将来を心配したり、話しによっては、いささかオセンチになる傾向もあったりしたが、何しろ愚痴をこぼさなかったのが印象に残る。
最近は一粒種を亡くした不幸も克服し、東北沖電気(株)で活躍中と聞いていたのに、この度の突然の奇禍、ご遺族をお慰めする言葉もない。
われわれ友人にとっても、かけがえのない良い奴を失った悲しみは大きい。
髯ずらで、ハートナイスで、昔の海軍にそのままいつまでもおいておくのが最もふさわしい男であり、また、10年、20年後には盃を酌みかわしたい友人の一人でもあった。
深くご冥福を祈って潤筆する次第。
(なにわ会ニュース15号5頁 昭和43年9月掲載)