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平成22年5月11日 校正すみ

中田隆保君 交通事故で急逝

寿三郎

戦後、中田とはじめて会ったのは、22年の春から夏にかけてのことだったろうと思う。確かな記憶はないが、それは新庄か辻岡の手引きだったろう。当時、ぼくは池上線の旗ケ丘(今の旗の台)に住んでおり、奥沢の中田の家とは駅にして三つ、時間にして10分かそこいらでゆけるところにいた。それに学生とは言い条、学校へはめったにゆかず、もっぱら下宿でゴロゴロしていた時分なので、暇はいくらでもあり、不断着に下駄はきといった格好でよく中田の家へお邪魔をした。独りのことが多かったが、たまには新庄や辻岡と一緒だった。

その頃、中田は、奥沢の自宅に、二階の二間か三間を使って、妹さんと二人で住んでいた。既にどこかへ勤めていたかどうか。戦傷の手の(きず)がまだ完全には癒えず、箸を使い切ぬために、食事もフォークとスプーンでとていた。会えば二度に一度は焼酎やドプロの類いをんだ。んだ彼が、チラリチラと妹さんの方を横目でうかがいながら、へル談をやったのは、かなり後のことで、その頃はお互いにまだそんな精神的ゆとりはなかった。真面目に人生を論じ、社会世相を語りあった。そんなとき彼は「ともすれば生きる気力を失いがちで、死を考えたことも一再ならずあったが、妹に支えられてやっとここまで立ち直れた」としみじみ語ったことがあった。傍目にも妹さんは、当時の彼にとってたしかに妹さん以上の何か(妹さんには失礼ないいようだが)女房とお袋を兼ねたよな存在に見えた。「ウツコ、ウツコ」(中田は妹さんをこう呼んでいた。少なくにはそうこえた)という中田の声が今でもこえてくる。

強くはなかったけれども、中田は酒が好きだった。ぼくの半分も飲まぬくせに、二倍ものんだような顔をした。酔えばいよいよ声高になり、カラカラと打ち笑ったかと思うと、

何時の間にか悲憤傭慨して涙する、といったあんばいであった。中田の酒好きが生得的なものであったかどうか、僕は知らない。初めはせいぜい酒の雰囲気が好きだったくらいのところではなかったかと思う。が後の彼は明らかに酒を愛していた。というより、酒なくてはほとんど生きてゆけなかったのではないか。表面のにぎやかさとは裏腹に、酒なしでは堪え切れぬ寂しさが彼の中にはあったように思う。

黒枠に入った顔写真というのは、気のせいかもしれぬが、たいていは「影が薄い」ように思う。仏壇に飾られた中田の写真は、影が薄というわけではないか、何かこう中田らしからぬ表情である。オツムがかなりしっかりしているところを見ると、十年くらい前のものではないかと思うが、眼と唇にシニカルな笑みをふくんでいて、何とも複雑、曖昧な表情をしている。僕はモナリザの顔を思いうかべたくらいだが、もともと中田の顔は、もっと単純明快な表情だったのではないか。逃げたり誤魔化したり、ハスカイに構えたりすることなく、つねに物事に正対してきた彼の顔に、あのような曖昧さはなかったように思えるのだが・・・。

中田はまた話し好きだった。その上、話し上手だった。男らしい声で歯切れがよく、しかもリズミカルな話しぶりは、聞いていて気拝がよかった。楽しかった。サービス精神も旺盛で、自らもよく笑ったけれども相手をよく笑わせた。目をつぶれば、彼のイメージよりも先に、彼の声が聞こえてくるほど彼の声、話しぶりが印象に残っている。彼の声を抜きにした中田というのは、考えられない。中田の顔写真を見て、中田らしからぬもの.というより、何か足らぬものを感じた大きな理由の一つは、ここにあるのかもしれない。

昭和36年の春、僕は勤めをやめて今住んでいる緑が丘で小さな本屋をはじめた。奥沢の中田の家からは千二、三百米のところで、いよいよ近くなったわけだ。それまで中田も僕も勤めの身で、お互いに忙しくもあり、足も遠のいていたが、中田とも、また旧交を温められると、秘かに僕は楽しみにしていた。が、ちょうど入れ違いに中田は福島へ転勤になっていってしまった。以来ずっと会わなかった。ようやく会えたのは一昨年秋の慰霊祭のとき。久しぶりに会った中田は相変らず威勢がよかった。しかし、オツムの方は大分頼りなくなっていた。「ヨー向井、久しぶりだなア」と手をさしだしながら、彼は「貴様のここも(と頭部に、もう一方の手をやり)大分進行してきたなア、お互いに苦労しちょるからのー」といい、大口をあけてウアッハッハと笑った。宴会その他の会合で、中座するなんてことは性に合わぬらしくあのとき中田は最後まで残って飲んでいた。

久しぶりの上京、それに戦後はじめて会ったクラスメートの幾人かはいたことだろう。彼はかなり酔っていた。池田が車で中田を送ってゆくことになり、僕も方向が同じなので一緒にのせでもらった。その夜、彼は奥沢の自宅へは帰らず、姉さんのお宅に泊めてもらうとかで、目黒通り元競馬場のバス停裏で降りた。かれこれ10時近かったろう。彼の足もとがふらついているので、僕も降り、彼を抱えるようはしてマンションの階段を上った。そこで、またウイスキー・ビールが出された。彼は盛んに気炎をあげ、くだをまいた。

酔えば、たぎりたってくる何かが、彼の中に潜んでいた。これが中田との最後になった。

8月23日、辻岡が電話で中田の訃報をしらせてくれた。受話器をおいたままの姿勢で、僕は暫く呆然としていた。

(なにわ会ニュース15号5頁 昭和43年9月掲載)

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