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平成22年5月11日 校正すみ

弔辞  故中田隆保君の霊前に捧ぐ

池田 武邦

 

今から丁度四分の一世紀前、昭和18年、世界は第2次大戦という人類史上最大の動乱の真っ只中にあり、日本は太平洋全域にその戦線を拡げて、緒戦の優勢から逆転して次第に各戦線共苦戦に陥りつつありました。

その時、君は海軍兵学校を卒業し、少尉候補生として日本海軍の駆逐艦 「はやなみ」に乗組み、南太平洋の最前線に出撃しました。その翌年、少尉に任官するや、続いて駆逐艦「しらつゆ」に乗組み、幾つかの作戦行動に従事した後、渾作戦に参加するやビアク島沖の激戦において遂に「しらつゆ」は撃沈され、君は海上漂流の後、味方艦艇に救助されました。

 その後、呉に帰投、航空母艦「天城」乗組を命ぜられ、海軍中尉に進級しましたが、その頃から口(ひげ)と、(あご)(ひげ)とをたくわえ始め、紅顔の美青年と自ら称していた君も、日本海軍の中でも有数の立派なの持主となり、歴戦の勇士にふさわしい風貌となり クラス中は勿論、多くの将兵に敬愛され、いくつかの逸話を生みました。

しかし、戦局は益々われに利あらず、味方艦艇の損耗は激しく、太平洋戦線全域に配置されていたクラスメートの戦死の報は日増しに数を重ねてくるようになりました。

 昭和20年1月、君は当時の新鋭防空駆逐艦「ふゆつき」の航海長として再び水雷戦隊に配属され、その年の4月、戦艦「大和」と共に帝国海軍の最期を飾る海上特攻作戦として有名な天号作戦に参加、奇しくも私が同じ戦闘で私の乗組んでいた軽巡洋艦「欠矧」が撃沈され、君の乗り組む駆逐艦に救助される(めぐ)り合わせになました。

しかし、私が重油まみれになって東支那海々上で数時間漂流した後、駆逐艦「ふゆつき」に救助された時には、君は既に昼間の激戦で、艦こそ撃沈はまぬかれてはいましたが、艦橋で操艦中に両手に敵弾を受け、重傷を負って(たお)れている処でした。

君と私達とは、このような戦場に出るために、少年期から青年期にかかる3年という年月を江田島で文字通り机を並べ、ベッドを並べて、同じ釜の飯を食べながら人間形成の貴重な時間を共にしました。

そして兵学校を卒業するや、一日として休まる畷なく、死と向かい合い、おびただしい数の友の死を眼のあたりにし、昭和20年8月の敗戦の日を迎えました。

ひたすらに死をみつめてきた私達には、それは明らかに第2の人生の出発を意味していました。

鳥取の日赤病院で敗戦を迎えた君は、筋肉と指の一部をえぐり取られた腕のために全く動かなくなった残りの両手の指を見つめながら、情熱を燃焼させる目標を失ない精神的な悩みは人一倍深いものがあったに相違ないでしょう。世の中は激しい混乱の中で極度の物資不足に加え、職業軍人、特攻くずれ等々の冷い眼は特に感受性の豊かであった君には随分こたえたのではないでしょうか。

しかし、それによく耐え、不自由な手を自ら訓練し、遂に電気会社に勤めてハンダ付けまで出来る程になるのにさほど長い年月はかかりませんでした。そんなある日、酒が何よりも好きだった君は、早くオチョコを持ちたい一心で訓練したと談笑しながらも、「一時は自ら死を選ぼうと考えたことが何度かあったが、妹のお蔭で俺は生きられたよ」とぽつりともらした言葉が私には鮮烈に耳(たぶ)に焼付いています。

兵学校生徒時代、私と君とは35分隊の伍長と伍長補というコンビでした。君はその頃、小柄な身体をいつも情熱一杯にたぎらし続けるかのような日々を送り、ある時は鉄拳をふるい、ある時はチェストの上に立ち上って木刀を持ちながら、三号生徒の就寝起床動作を叱咤した姿は今でも懐かしく忘れられません。そんな君は実は大変な.淋しがり屋であることを私達は良く知っていました。

君はカッターで帆走巡航に出かけると、必ず得意の美声で「湖畔の宿」を歌い、場末の響きをこよなく懐かしんでいました。分隊の三号生徒にはまことに厳しい兄貴分でありながら、そのにじむような情愛は分隊全隊の素晴らしいチームワークの大きな要困でありました。

それから20数年経ったクラス会の慰霊祭で、遺族を前にして酒をくみながら涙を流し、鼻水をたらし、泣き出すととめどなくなる様子は、君の人間味を如実に物語るものでした。人間中田は、たまらなくいい奴だという言葉がぴったりする生徒時代の印象は、彼の生涯を通じて益々深まっていました。

私達クラスにとって、かけがえのない友を失ってしまいました。

私達は、今までにあまりに多くのクラスメートを失い、亡き友の生前の面影を想い浮べながら互いに心で語らう習慣が、いつのまにか身についてしまったような気がします。

君ともこれからは、そのような語らいをすることになりますが、その時はチョッピリ、だぼらを決めた例の調子で存分に語り掛けてくれたまえ。

海軍兵学校72期クラスの心からの願いをこめて君のご冥福をお祈りします。

(なにわ会ニュース15号6頁 昭和43年9月掲載)

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