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鍋島茂明校長逝く

        安藤 満

機関科の期友がひとしく敬愛する鍋島校長が、昭和五十一一月十三日午後五時、心不全のため、神奈川県逗子市の逗子病院で逝去された。

 常々周囲の人達には、この分なら百歳までは大丈夫と話されていたほど壮健であられたのに、逝去される二日ほど前に急に気分が悪くなられ、救急車で入院された由である。

一月十五日夜、逗子のご自宅でしめやかに通夜が行われ、山田生徒隊幹事、堀江教官等の諸先輩と共に、大津、飯田、北村、上野、上田、安藤等の期友が出席した。

 葬儀は一月十九日午後一時から、神奈川県葉山町の光徳寺で行われ、広い本堂が充ち溢れるばかりの参列者で埋まる盛儀であった。

導師の読経につづき、十九期のクラス代表徳田先輩、水交会代表庵原会長、米海軍カート大佐、および教え子代表寺尾海将補(五十二期)からそれぞれ弔詞(別稿参照)があり、終って親戚を代表して、武見日本医師会々長の謝辞があった。

木の間がくれに相模灘を見下す景勝の地、寒中とはいえ小春日和の陽光がさんさんとふりそそぐここ葉山の光徳寺に、永遠の眠りにつかれた鍋島校長のご冥福を心から祈る。

 ご法名、誠忠院殿碧海茂明居士、享年八十六歳。

 なお、葬儀に際し、「なにわ会」及び「海機第五十三期級会」連名で、供花及び香典を捧呈した。

渋谷(兵)、森山、飯田、梅本、室井、阿部(達)、大山、安藤(以上機)等の期友が葬儀に参列したほか、全国各地の期友から、弔電・香典が寄せられた。

 

 弔   辞

 「校長閣下」

私どもは、今なお、こうお呼び申し上げたい。校長のさっ爽たるお姿は、私ども、生徒にとっては毎日仰ぎみるシンボルであり、一つの憧れでもありました。思えば三十余年の

昔とはなりましたが、校長閣下のご着任は、舞鶴湾頭から第一線艦艇をはじめ、武装された特設艦までが次々に姿を消し、事態の切迫を感じさせる頃でありました。日ならずして世界三大海軍国の二つ、米英を相手とする未曽有の大戦の勃発となりました。

 先輩の赫々たる戦果に、血は沸き一日も速く卒業、前線へ馳せ参ぜねばと、扼腕と焦慮の色濃いわれわれ生徒学生に対し、校長は時流を深く洞察され、あくまで生徒・学生の本

分に邁進するよう諭され、苛烈な時局下にもかかわらず、戦前と変わらぬ地についた教育を継続されました。

 雪中の観兵式、饗庭野原頭における馬上豊かな御勇姿、岩国航空隊実習における飛行服姿の校長と、常に生徒と共に、その薫陶に専念されたお姿が今日も鮮かに偲ばれます。

 戦時の難局下において、時代を超えた真の教育を受けることができましたことは、校長の一貫したご方針の賜ものであり、私どもの卒業後の人生に不滅の指針を与えられたこ

とに、深甚の感謝の意を表するところであります。また、戦後の度々の同窓会には、必らずご壮健なお姿をおみせ頂き、「どうだ、やつとるか」とのご激励を受けることが、私どものまたとない刺激であり、励みでありました。

一九四〇年代の海軍をリードされた校長のご遺志を継いで、私ども当時の生徒達は、一九七〇年代の主役を果たすべく懸命に努力する所存であります。

 私どもの魂の支えとなっておられました校長のご逝去を悼み、謹んでご冥福をお祈り申し上げますとともに、決意の一端を述べて弔辞と致します。

 昭和五十一年一月十九日

 海軍機関学校生徒・学生代表

      寺尾 善弘 

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