平成22年5月15日 校正すみ
森山晃君への弔辞
山下 武男
森山君、とうとう俺が最も恐れていた時が来てしまった。
君の霊枢の前に額ずき、この悲しい弔辞を呈する時が、こんなに早く来ようとは。
唯、天の無情を恨むばかりである。
君が健康を損ねて、東大病院に通院加療を繰返すようになって既に久しい。だがそれは、「がん手術後に誰でもやる、抗がん剤の投与と検査のためだから、何てことはない。」と君はいつも言っていた。事実クラスの会合等には、殆んど顔を出すし、昨年10月の我々海機53期の卒業50周年記念行事の伊勢神宮参拝旅行には、御夫婦そろって参加され、あんなに元気で、楽しそうだったのに。
だが、その2か月後の昨年12月13日、突然村山からの「森山が脳腫瘍で倒れた。」との連絡に、取るものも取りあえず東大病院へ駆けつけた。病床の君は意外に元気で「頭の中にピンポン玉位の腫瘍が出来ているんだ」と驚く俺を尻目に笑っていた。約20分で病床を辞したが、別れ際の握手で、意外に強い力で握り返えして来た君の手の温もりが、今鮮やかに.甦って来る。
その後25日に村山から「手術は8時間かかったが、経過は良好で、既に新聞が読める位に回復しており、後遺症も殆んど無いらしい。」 とのことであった。手術の結果を案じていた俺は、この知らせに 「8時間もの手術を良く頑張ったなあ、良かった、ほんとに良かった。」と心から安堵した。
更に2月20日には君自身が電話を呉れたなあ。「今日3か月振りに、自宅に帰って来た。長い入院で足がふらつくので、今リハビリをやっている。」と言うので「6月の靖国神社の参拝クラス会でも会えそうか」と聞くと「それまでには大丈夫だよ。」とあんなに自信たっぷりに話していたのに。
顧みれば、君との出会いは、日本が泥沼の太平洋戦争に突入する1年前の、昭和15年12月1日が始めであった。
この日、海軍機関科将校を志して、全国から選ばれて、舞鶴の海軍機関学校の門をくぐった120名は、共に第53期生徒に任命された。以後約3年の間、風雲急を告げる時局を反映した峻烈な生徒生活が待っていた。
朝「総員起し」のラッパと共に跳ね起き、夜の就寝ラッパまで、分刻みで決められた日課は、息を抜く暇もなく、その間一号生徒の怒号と鉄拳が乱れ飛ぶ。午前中は、一般学科や術科等教室での座学。激しい訓練で疲れた体に、用捨なく襲って来る睡魔は、殆んど耐え難い程であった。午後は、柔剣道、水泳、相撲、短艇、ラクピー、陸戦等の体技が季節によって課せられた。
未だ明けやらぬ厳冬の舞鶴湾内、一面に張りつめた薄氷を押割りつつ漕ぐカッター訓練、棒倒しよりきつい独特の雪中攻防戦、裏のスキー場の急坂での武装駆足等の苦しかった各種訓練は、50年を経た現在でも、青春のエネルギーを燃焼させた懐かしい思い出として次々に甦って来る。
3年間の生徒生活の、最も充実した時期である一号生徒の時、幸いにも君と俺は、共に第8分隊で机を並べることとなった。
特に忘れ得ないのは、昭和18年5月27日、毎年海軍記念日に行なわれる恒例の分隊対抗ラグビー競技大会に、我が第8分隊が優勝したことである。卒業年次の最も晴れがましい大会は、あいにく朝からの雨で、試合は雨中の決戦となったが、全身に泥をかぶって目だけ光らせた君が、猛牛のように突進した勇姿は、今も眼裏に鮮やかである。
団体競技である以上、優勝の源動力は、君一人の力でないことは勿論で、バックスの岸君や西川君らの好走も、与って力があったが、何と云っても、ホワードの中心として、下級生を良くまとめ鍛え上げて、終始相手チームを押しまくり、勝機を与えなかった君の力が大きかったと思っている。
生粋の江戸っ子である君は、体格も大きかったが地声も大きく、話に熱が入って来るとべらんめー口調となり、一気にまくし立てる迫力は相当なもので、その一喝は相手を畏服させるに十分であった。君の体形や容貌と相侯って、これが後年海上自衛隊において、接する若手幹部から「ライオン」のニックネームを奉られて、畏敬された所以である。
機関学校卒業後、1期の候補生期間は、君は山城、俺は伊勢の乗組となり、一時別れ別れになったが、2期候補生期間は共に飛行機整備学生として、追浜海軍航空隊で再び学生生活を送ることとなった。万事規律で縛られた生徒生活に比べ、かなり自由が認められた、約7か月のこの学生期間はほんとに楽しく、土曜日には厚かましく君の中野のお宅へ押し掛けては、戦時下いろいろと御迷惑を掛けたが、いつも温く歓待して下さったことをよく憶えている。
整備学生卒業後は、俺は横空に居残りとなり、終戦まで内地勤務であったが、君は第653航空隊付となり、第3航空戦隊の空母部隊再編成準備のため、内地の各航空基地を東奔西走の後、空母瑞鳳に乗組んで比島沖海戦に参加、優勢な敵の航空攻撃に対し勇戦奮闘したが、遂に武運拙く乗艦が撃沈されるに及んで、約4時間海上を漂流して、運よく味方駆逐艦に救助され九死に一生を得て生還した。
思うに、君の持前の強靭な精神力と頑健な体力が、この幸運をもたらしたものであろう。
終戦後は東京において、一時魚市場関係の仕事を経験したが、その後、海上自衛隊が創設されるや、再び航空機整備の道を天職と思い定めて率先入隊した。
当時、海上自衛隊航空部門は創設期で、航空機等の全ての機材は、米国海軍から供与を受け、航空機整備技術等も、米海軍から学んだことを日本流にアレンジしながら、導入を図っていた時代であった。
君は昭和29年暮から、選ばれて米国海軍航空技術訓練部隊に留学を命ぜられ、米国において、実地に最新の整備技術の習得と、航空機の管理維持法等の研修を行ない、約1年後に帰国した。
以後は、これら体得した新しい知識技術をもとに、開拓者的困難を一歩一歩克服しながら、専ら海上自衛隊航空部隊の整備組織の充実と術力の向上に努めて来た。
その間、よく若い人材の育成に努め、寛厳よろしきを得た指導と共に、部下の面倒見も良かったので、部下の信望は極めて厚いものがあった。
性格は、大局をよく見極めて判断を誤らず、自己の信ずる所を主張して枉げず、剛毅果断、所信を断行するタイプであった。
昭和52年7月、海将に昇進し、昭和55年2月、停年の定めにより退職するまでに、歴任した主要な配置は、自衛艦隊幕僚、第3支援整備隊司令、海幕航空機課機器班長、舞鶴教育隊司令、海幕教育第2課長、下絵教育航空群司令、木更津航空補給所長、第3術科学校長、需給統制隊司令、等の多数に及んでいる。
海上自衛隊在職中の、これらの功績が、賢きあたりより嘉賞されるところとなり、平成5年3月、春の生存者叙勲において、勲3等瑞宝章が下賜され、御夫婦にて皇居に参内し、拝謁の栄を賜ったことを、無上の喜びとしていた。
一切の職を離れてから始めたゴルフや車の運転も、持前の体力と実行力で上達は早く、かなりの腕前になったと聞いている。
君は家庭にあっては良き夫として、令夫人と共に模範的家庭を早々と築かれ、お二人のお嬢様も共に良縁を得て既に家庭を持たれ、夫々可愛いお孫様にも恵まれ、幸せの見本のような家庭である。
森山君、君は桜の開花も待たず忽然として逝ってしまった。もう少し長生きしてほしかった。実に残念だ。
然し乍ら、君の若くして志を立て、身を海軍に投じて、国の危急に際しては、機関科将校としてよくの本分を尽くし、戟後、自衛隊では、功成り名を遂げて、位は海将にまで昇りつめ、家庭には何等後顧の憂い無く、得意の愛車を駆って、令夫人と共に国内各地のドライブ旅行や各方面の外国旅行を楽しむなど、豊かな人生の秋を十分に楽しんでいるようだ。また、これまでの斗病生活では、我が国医学界の最高レベルの医療と令夫人の献身的看護を受け、最後は、お嬢様、お孫様達、それに多くの期友や友人、知人に看取られながら、厳粛で穏やかな死を迎えられたのである。
以って瞑すべしと言わなければなるまい。
森山晃君、50有余年に及ぶ君との交友も之で終りかと思うと、涙を禁じ得ない。ほんとうにありがとう。
どうか、安らかに眠り給え。さようなら。
さようなら。
平成6年3月31日
海軍機関学校第53期同期生
代表 山 下 武 男