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平成22年4月29日 校正すみ

森 栄 教官(58・12・12逝去)

謹んで御冥福を祈る

鈴木  

兵学校の雨天集合所で、軍楽隊の演奏会があった。軍服姿の教官が、白いケープに包まれたお子さんを、可愛くて、可愛くて仕様が無いという風に抱いておられた。それが森さんでした。葉隠れの佐賀ご出身、上級生の熱誠溢ふれる特別指導を黙認という噂の森さんに、こんな一面があったかとひそかに嬉しくなった想い出がある。

戦後はじめてお目にかかった折、71期の弟さんが亡くなられたお悔みを申し上げたが、肉親の弟さんを亡くされ、落胆されていた森さんにお慰めの術もなかった。

それ以後何遍かお会いしているうちに、「ブラジルに移住するんだ。君もどうだ。広いこれから発展が期待されるブラジルへ行って頑張ってみないか。」とお勧めをいただいた。

 色々の都合で私はブラジル行きの決心はつかなかったが、森さんは着々と準備を進められていた。自衛隊入隊前に、ブラジル渡航の青写真がほぼ出来ていたと思われる。

自衛隊を退隊、日本を発たれた頃の記憶はどうした訳かほとんど残っていない。

昭和40年の海上自衛隊練習艦隊は、ブラジル、アルゼンチンへの遠航であった。私は幸運にもプレスマンとして、プエノスアイレスから横須賀までの復路、艦隊に便乗を許された。モンテビデオ、サントス、(サンパウロ訪問)寄港の後、9月4日リオデジャネイロに入港した。森さんのお出迎えをいただき、久し振りのど挨拶を申し上げた。

行事が盛沢山の在泊中の一日、艦隊航空幕僚であったクラスの柴田英夫君や、森さん旧知の自衛隊の幹部数名と共にお招きをいただいた。森さんご夫妻、お母様、お子様方、一家をあげての歓待をいただき、ひと時を過した。

5日間の在泊も終り、9月9日リオを出港した。サンスト入港時の万を越える出迎えとうって変り、見送りの人は百人程であった。その中に自衛隊の正服姿の森さんと奥様が見えられた。私は艦橋の横で森さんご夫妻に最後のお別れをした。森さんのお顔に心なしか寂しさがうかがわれ、たまらない気がした。

この機会に森さんとゆっくり語り合い、色々とお話を聞きたいと日本を発つ前から度々連絡し、森さんに喜んでいただこうと心ばかりの土産を持ってきたのであったが、練習艦隊という大きな訪問者と一緒では、ささやかな私の一人よがりは、無残な結果に終ってしまった。後味の悪さをかみしめながら、最後まで軍艦旗を振りながら見送って下さった森さんにさよならをした。

この後、森さんかブラジル東京銀行関係の仕事をされた折、たまたま同銀行の頭取であった私の中学校友人宇佐美君をご紹介申し上げた。それが森さんのためになったかどうか分らないが、兵学校以来お世話になった森さんとの最後になってしまった。

この次はあの世で、森さんからゆっくりお話を伺い、お話を申し上げられると思う。

ご冥福を心からお祈り申し上げます。

(なにわ会ニュース50号21頁 昭和59年3月掲載)

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