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平成22年4月29日 校正すみ

森 栄 教官(58・12・12逝去)

謹んで御冥福を祈る

左近允尚敏

森教官と私の戦後の思い出は、海上自衛隊の遠洋航海とつながっている。戦後の遠航は昭和32年度に始まったが、そのとき森教官は旗艦「はるかぜ」(国産第1号の護衛艦だった)の艦長、私は司令部の副官兼幕僚でご一緒した。その直前に初めて白の制服や副官飾緒が制定されたので、私はミッドウェーに向う洋上で、森教官から飾緒の付け方を教えて頂いた懐しい思い出がある。

当時なにわ会誌でも報じられたが、20年近くを経た51年度遠航の指揮官として南米を訪れたとき、森教官はたいそう喜ばれて心から歓迎して下さった。当時の新聞の切抜きを見ると、邦字紙はもちろんポルトガル語の新聞も森教官の記事や写真をのせている。

サントス入港のときは海上自衛隊の制服、艦上パーテーでは海軍少佐の軍服で、勲章も付けておられた。サンパウロのお宅に参上した際は、御母堂、奥様、御子息ともども歓待して下さった。森教官は戦時中に私の父(40期)と勤務を共にされたことがあり、よく思い出話もされた。

海上自衛隊遠航部隊のブラジル訪問は4年に1回であり、教え子である72期が指揮官の年に当たったことを、森教官は本当に喜んで下さった。私も遠航に行くと決まってからは、森教官と再会の期待に胸をふくらませていたのであり、誠に楽しい数日を過ごさせて頂いた。

ブラジルに「月刊セクロ」という邦字の雑誌があって、軍艦旗の前に立った私の写真が表紙になったので、後で送って下さったが、表紙には森教官の筆で、「背景はなにわ会からの大軍艦旗」と書込まれている。

当時私の副官だった阿部弘之君(現「もがみ」艦長)が4年後の55年の遠航にも参加し、森教官をお見舞いしたが、そのときの様子はなにわ会誌で報告してもらったので、ご記憶の方もあると思う。今年も南米遠航の年であるから、お別れしてもう8年になる。

森教官のお人柄については私がうんぬんするまでもない。72期みんなに慕われたよき教官、よき先輩であられた。訃報に接して残念でならないが、お子様方は立派にやっていらっしゃるとうかがっている。さだめし後顧の憂いなく逝かれたことであろう。謹んでご冥福をお祈りすると共に、ご遺族のご健勝を祈念申し上げる次第である。

   

  栄(69才)儀、脳血栓にて6年に渡り自宅療養しておりました処、12月12日午前4時尿毒症にて永眠いたしました。

生前のご交誼を賜りました皆様方へ謹んでお知らせいたします。

1983年12月13日

喪主    富士子

親族一同

戒名 朝海院釈春顔伯栄

 

富田 連徳(77期 ブラジルサンパウロ)

(前略)森 栄氏が83年12月12日早暁、サンパウロの病院で亡くなられました。脳血栓で倒れられてから、もう6〜7年になり、82年11月、日本から福地誠夫氏が見えられた時、小生がお宅に偵察に伺いましたが、もう相手が誰だかお判りでない御様子でしたので、福地さんの御訪問を止めて頂きました。

それから1年、御病気の方も気がつかない中に段々悪くなり12月上旬入院され、そのまま亡くなった次第です。

当地サンパウロ桜花会では、12月13日午後4時、全員Morumbi墓地に集合し、「海征かば」の斉唱で故人をお送りしました。(後略)

(なにわ会ニュース50号21頁 昭和59年3月掲載)

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