平成22年4月29日 校正すみ
森 栄 教官(58・12・12逝去)
謹んで御冥福を祈る
押本 直正
森 栄教官が一家をあげてブラジルに移住されたのは、昭和40年6月20日であった。横浜港大桟橋を出港する「さくら丸」での船上の写真が、ニュース6号7頁に残っている。
当時、海外移住事業団(現国際協力事業団)に勤務していた私は多くの級友たちとそれを見送った。船が視界を去るまで軍艦旗を打ち振っていた教官の御姿が眼に残っている。
つぎにお会いしたのは46年10月であった。渡泊当初勤務された山縣建設(リオ・デ・ジャネイロの対岸ニテロイ)の先代、山縣勇三郎の生涯を調査されていた森さんに色々とご教示を受けた。(山縣勇三郎は万延元年、平戸に生まれ若くして北海道に渡り、経済界に君臨した傑物で明治41年ブラジルに雄飛、業半ばにして大正13年ブラジルで没した。お孫さんは64期の山縣茂夫氏。私はその生涯を150枚の伝記小説にまとめた)その時のことは、ニュース25号17頁に書いたが、山縣の遺跡をめぐり3日間の小旅行を試みた。山縣氏の別荘でピストルの試射する森さんの写真がニュースに残っているが、その数日後ニテロイからサンパウロに移転された。
最後にお会いしたのは、54年3月、その前年の3月、高血圧のため倒れたとかで心配しながらサンパウロの御自宅をお尋ねした。(ニュース41号20貢参照)思ったよりお元気で、翌日わざわざ都心の事業団事務所まで御夫婦でお土産のブラジルチーズを届けていただいた。
細字で凡帳面に書かれたお手紙を頂かなくなってから5年が経過した。その間サンパウロ在住の77期の富田達徳君からクリスマスカードに、森さん御一家の近況などが添えてあったか、こんなに早く亡くなろうとは夢にも思っていなかった。
69歳といえば、日本では若死にの部類に入る。ブラジルにご出発に際して私は
日の本の苗木育ちてブラジルの
森と栄ゆる 日の今ぞ来ぬ
という腰折を送った。森さんはお会いするたびに、喜んでそのことを口にされた。
幸い御母堂は90歳で御健在、日本で病気がちだった御夫人もブラジルの風土が体に合って御健康の由、御子様たちもそれぞれ御活躍の趣である。
森と栄ゆる日は、かかって御子様の双肩にあると思う。森教官の雄大なご意志を継いで今後の御活躍を祈る次第である。 合掌。
追記 森教官の戦時中の記録 (編集部)
(なにわ会ニュース50号21頁 昭和59年3月掲載)