平成22年4月29日 校正すみ
森 栄 教官(58・12・12逝去)
謹んで御冥福を祈る
河野 俊通
森教官との最初の出会いは入校当日である。四号時代の所属分隊は22分隊であったから、4部の指導官であった森教官には直接指導を受けた訳である。柳か縁は深い。キチンとした服装と口髭が特に印象に残っている。口髭を生やしていた理由を後日ブラジルでお尋ねしたところ、顔が小さくて威厳がないから髭を生やしていたとのことであった。
四号時代の小生は風邪を引くと直ぐ青マークを附けていたから、どちらかと云うと不良生徒ではなかったかと思っているが、森教官から叱られたり、褒められたりしたことはなかった。入校教育で一番印象に残っているのは「目先がきいて凡帳面、負けじ魂これぞ船乗り」と云う心得を教官から繰り返し教わったことである。
戦後、靖国神社の昇殿参拝クラス会で一度お目にかかって、また長らく御無沙汰していたが、昭和48年10月15日サンパウロでお会いしたのが、ほんとの交際のはじまりと云ってよい。
教官は渡伯後リオデジャネイロに居を定められ、日系移民では成功者の山縣と云う人の会社に居られたが、その会社が旨く行かなかったので、日系人の多いサンパウロへ移られ、海軍の短現主計科士官であった加美山氏が頭取をされているBANCO
DE TOKYO S/A (伯国東京銀行)に席を置かれていた。
その頃の森家は教官御夫妻の外、当時80才になられたお元気な御母堂様、結婚して子供が二人の長男(別居)、友人と協力して農場経営をしている次男、長女夫妻(別居)で、御家庭では御母堂と御夫婦の静かな御生活であったと記憶している。尚次女の方は蓑島民(63期の方の御子息)と結婚され日本へ帰国されていた。お子様は二男三女。
当時、長男忠重君は伯国富士フィルムへ勤めておられたが、日本企業では日本本社採用の現地派遣社員の待遇は日本ベースで、現地採用者は現地給与ベースで決められていたのでサラリーが派遣社員より遥かに安く、伯国で水処理をやらせてくれないだろうかとの教官の御言葉があったので、翌々10月17日早速忠量君に会い、殆んど全額を東西化学産業鰍謔闖o資するTOHZAI
QUIMICA LTDA(トーザイキミ、カ有限会社)を設立し、忠重君を日本で教育し、帰伯後チーフエンジニアとしてやって貰うことを約束した次第である。正式には2回目渡伯時会社を設立発足し、比較的順調に発展を続けて来たが、ブラジル経済の急激な悪化に伴い其の後社長となった忠重君の奮斗にも拘らず、昨年始めより経営状態が悪化して来たので、現在は苦しい状態が続いている。
その頃、森教官は血圧が高く、薬に頼るのも良くないので、剣道をやっていると云うようなことを云っておられたが、至極元気な御様子だったが、東銀を退職され、高血圧が原因で倒れられたと聞いている。小生、教官が羅病されてからはブラジルへ行っていないので病気中にお目に懸ってはいない。今回突然の訃報に接しほんとに驚いている次第である。
サンパウロにはブラジルで日系コロニアが最も多く住んでおり、旧海軍の士官、下士官など合計数十名の人が居て、企業幹部や商工業者として活躍している。珍しいところで牧師をしている人もいる。これら旧ネービーの人達が集まって桜花会と云う会を作っており、海軍記念日など年一〜二回は艦内帽をかぶり、白い事業服を着てパーティーなどを楽しんでいるが、森教官は艦長、艦長と云ってオールドネービー達の象徴的存在として親しまれていたことを今でも忘れることが出来ない。
小生、前後5回程渡伯しているが、トーザイキミカが順調に軌道に乗ってからは、代人を派遣し、今日に至っている。目下、伯国経済は我々の想像を絶する苦悩の時代を迎えており、一30%以上のインフレイションと云っただけで、その困難が分って貰えると思うが、今後少なくとも2〜3年は此の状態から脱し得ないと考えられる。
そうした中でも、森教官の御病気は徐々に快方に向われていると云うように聞いていた所へ、突然御逝去の報に接し、何故、昨年渡伯して色々とお話しておかなかったのかと悔まれてならない。地球の反対側のことで葬儀にも参列出来ないことが残念ではあるが、本誌上にて心より御冥福をお祈りする次第である。
どうか、教官、安らかにお眠り下さい。
そして、天上より御遺族の御幸福御繁栄と、日系コロニアの成功発展を、お護り下さらんことを祈願し、教官を偲ぶ追悼文を終ることとする。
(なにわ会ニュース50号21頁 昭和59年3月掲載)