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 森栄教官との奇遇

          富田 岩芳

 なにわ会ニュース35号の森教官の記事に関連し、かねてから、同教官から戦記集編さん上の宿題となっていた一件をご報告します。
 昭和49128日、ブラジルはサンパウロ郊外のコチヤ街道沿いの農場で、ネービー会(桜花会と呼称)が行われとの報を、青木建設の織壁君(経39)、初見君(兵76)からもらされ、同君等の車に同乗して出席の幸運に恵まれました。同会には歴戦の勇士が多く、森艦長を始め、真珠湾攻撃の酒巻さん(トヨタ社長)、宮内さん(赤城艦爆隊長),柚の木さん(マニラ陸戦隊長)と揃って、袰岩(ほろいわ)当直将校(東銀常務 兵76)の指揮のもとに軍艦旗掲揚、森艦長の訓示などに続き、家族ぐるみの行事がもり沢山で、楽しい一日を過しました。
 その折、元海軍兵曹の握る寿司をほおぼりながら、森教官と戦歴を語り合ったとき、朝顔艦長で、昭和2018日、高雄港外で対空戦闘のため、船団をとりまいて、終日、”盆踊り″に暮れた話しに続き、空襲が夕刻やむ頃、附近の海防艦の艦橋に直撃弾が命中し、航行不能に陥った話しとなり、「それは、私の乗っていた屋代ですよ」と全くの奇遇に、互いに話しがはずみ、更に、夜陰に、単独出港して、コンパスの不調に気付き、人力操航と、口頭伝令による機関室との連絡によりながら入港したとき、朝顔の横腹に衝突した話しにおよび、
 「あの時は、敵襲かと驚いて、″戦闘配置につけ″をかけたが、敵機は見えず暗やみの中に僚艦の衝突と、ようやく分った」。
 「おかげで内地へ修理に帰れたよ」と呵々大笑となりました。
 屋代は、艦橋に敵艦爆の直撃を受け、山下貞義艦長(海兵)航海長、機雷長、操舵長、信号長が即死し、主計長(私)のみ生き残りその夜おそく、砲術長(特務少尉)と、着任早々の航海士の操艦で出港に決し、やむなく帰港したものでした。

一兵(士官)たりとも前線にほしい時機でもあり、懲罰はどうやら免れました。

 

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