サン・パウロに眠る森栄教官
押本 直正
1 八年ぶり四度目の南米旅行
62年9月から10月にかけてブラジル、アルゼンチンに旅行した。私にとっては四回目の南米旅行。
最初は38年に約100日、経営コンサルタントとして外務省の依頼を受けて海外移住に関する現地機構の改善調査。
二度目は46年に一月半、海外移住事業団の職員で工業技術移住の調査。
三度目は54年に国際協力事業団の移住者引率員として25日間。
四度目の今回は富山県南米移住史の編纂委員として現地取材のため三週間。
いずれも海外移住に関係する旅行だが、何故か八年おきにでかけたことになる。前三回は帰途にアメリカやカナダに立ち寄ったが、今回はブラジルとアルゼンチンだけ。
2、草葉の陰の森教官
サン・パウロに滞在中、森栄教官のお墓にお参りすることができた。九月十九日、御長男の忠重氏の案内で郊外の墓地に向かった。この日サン・パウロは冷たい春の雨。日本流にいえば丁度お彼岸の入り。ブラジルでは日本のお盆にあたる行事が十一月の初めにあるそうだが、お彼岸の墓参りという習慣は無いという。しかし墓地には日系人と思われる人達が、お花と線香をもってお参りする姿がかなり見られた。
墓地は芝生であった。ただ一面の芝生の中に点々と鋳物の鉄板がおかれ、名前と生没年月日が刻まれている。
横浜の外人墓地を予想していた私にとってはいささか意外に感じたが、文字通り草葉の陰に眠るという感じの墓地。
思えば二度目の四十六年の時は森教官はきわめてお元気でご一緒に旅行やピストルの射撃などをし(25号I17頁参照)、三度日の54年の時には、その前年にたおれて療養中(41号I20頁参照)。
三、オヤジそっくりの次男芳久氏
長男の忠重氏もオヤジさんに似ていると思ったが、次男の芳久氏に会った時はびっくりした。まるで昭和十五年の兵学校教官森栄大尉がそこにいるではないか。
おまけに声から仕草までがソックリなのである。彼はサン・パウロから千五百キロ離れたエスピリットサント州で農場を経営しているそうだが、たまたま帰省中だったのである。
そして彼が樹で熱らせたという御土産の台湾マモン(パパイア)を食べさせてもらったが、マモンがこんなにうまいとは知らなかった。
森家はご母堂のむめ様が九十四歳でご健在である。富士子夫人との間に忠重、泰子、芳久、幸子、英子の二男三女があり、幸子さんは東京にいるが、その他はブラジル在。三女下川英子さん夫妻がむめ、富士子様と同居している。
四、昭和十六年七十二期訓練日誌など
森教官は極めて几張面な方で、史資料類を丹念に分類保管されていた。古くは森家先祖に関するものから、幼少時代、六十三期兵学校生徒、艦隊勤務、兵学校教官、自衛隊時代など壁面をうめつくす程の資料が見事に整理されて残っている。
その中の一つとして、七十二期四部訓練日誌、十六年十六分隊・十七年二十九分隊訓育名簿をクラス会資料としてお借りしてきた。
訓練成績、人物考課等が個人別に記注されており、人秘的色彩の濃いものであるから、その全てを公開するわけにはいかぬが、昭和十六年十一月二十四日に開かれたクラス会における樋口、沢本、真崎、坂元、鈴木、倉本、伊中、森山、権代、伊藤、高橋、清水、藤井、大槻、山田、村島の発言を和泉正明が総括要約して次のように述べている点など面白い。
*厳然タル軍紀ノ下二 73期二慈愛ヲ以テ接ス
*71期二絶対服従 批判反抗不可
*世界列強二対スル自覚
*明朗闊達 質実剛健 誠心以テ邁進セン
16分隊訓育名簿に「学習二対スル生徒ノ希望」として次の記述がある。
*言葉ノアトガヨク聞エヌ(消エル様ニナル)
*黒板二無系統二書カレルノデ「ノート」スルニ困難
*「中学時代二習得セルモノ」トシテ全ク省略サレ現在ノ教務トノ連絡困難
*教材ガナケレバ了解二苦シム
*質問ヲ時々生徒二与へラレル時ハ眠気ヲ去リ緊張シ得ル資トナル
*無系統二教授サレル為記憶二苦シム
*前ノ時間ノ復習ヲ一寸ヤラレル為非常ニ ヨク分ル
*黒坂ガ光リヨク見エヌ
*3H、4H目頃腹ガ滅ツテ眠クナル
*軍事学ハ単ナル学問トシテデナク将来ノ勤務卜関聯スル気持デ話サルレバ興味アリ眠クナク且ヨク了解シ得ル
*要点卜参考二近キモノトノ差別ヲ明カニサルル時ハヨク分ル
*2H連続教務ノ時ハ休憩時間ガ欲シイ
72期四部手旗訓練成績平均点
年月日 送信速度 4班 10班
151230 25/m 七九・六 七〇・四
16227 25/m 七八・一 七三・二
1641 30/m 七八・八 七六・九
(備考)右隈辰彦教官の手元には、72期第一部の同様の訓練日誌が残っているとのこと。
(付) 帝国海軍艦爆乗りの特権
ブラジル・アルゼンチンは丁度日本の反対側にあるので、地球上で日本から一番番遠いところにある。したがって成田からサン・パウロまで26時間を要する。今回の旅行は胃の手術後一年目の病後でもあり、スポンサーの好意もあってファーストクラスで往復することができた。ファーストクラスの特権は手足を伸ばして寝ることと食事である。残念ながら飲み食いの特権は全く行使できないので、一計を案じチーフパーサーを呼んで次のよう命じた。
「余ハ大日本帝国海軍ノ艦爆乗リナリ。汝ガ飛行機ノ操縦席ヲ見ント欲ス。機長二告ゲヨ。ツツガナキヤ?」
かくして写したのが別掲の写真である。場所はペルーのリマからロス・アンゼルスへ向う途中、飛行機はヴァリグ・ブラジル航空のジャンボ。隣の美人はスユチュワデス。
38年の最初の南米旅行の時には、同様の手段を使ったら実際に操縦させてくれた。ブラジルのサン・パウロからポリビアのサンタ・クルスに向うクルゼイロ・ド・スル社のDC3機。その頃はハイジャックなどという物騒なことも無かった時代でもあったが、外国の旅客機を操縦した人はまずあるまいと、今でも自慢の種である。