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ある帝国海軍軍人の移住

−その内なる資源問題−

森  栄

(51・3・28  サンパウロ)

 前略

 約1カ月前に、「実業のブラジル」社から取材の申込みがあり、私は「私と実業との関係は特筆に値するものはないでしょう」とて極力断ったのですが、外山記者のご熱心さに負けて、「ソンナラ、お出でなさい」と返事しておきましたが、あとで、ふり返りみまして、護衛と海外依存度と移住の関係なら独自の体験でありそうだ、と思いました。

 そこで、二日してから、東銀に外山記者がやってきて、応接席で約1時間ばかり、おしやべりし、その結果が、同封写のよう記事となりました。

 私としては、「昔の帝国海軍も戦争遂行のため苦労し、今の海上自衛隊も、祖国の海外依存度という点で、早くから大いに研究しているのですよ」と実業界(ただし、当地)の人たちに申上げたい点をよく書いてくれているようです。

 九死に一生を得た元駆逐艦長という点では、元々私のようなのは三等駆逐艦長で,日本列島ならバリバリの一,二等駆逐艦長が沢山生残られ、私の如きは珍しくないでしょうが、そこはこのサンバウロで駆逐艦長と名のつく人すらも珍しいので,この記事のように過大評価になったもののようです。

 その後もおかげ様にて元気にやっております。二月中旬には三女夫婦が、当地北東約4時間の海抜千七百メートルのCampos do Jordaoという山荘で、俗界を離れて静養でき、血圧にも大変有効でした。その時の写真あと一週間したら出来ますので、これも同封してから投函する予定といたします。

以下その記事です。

 ブラジルの市民社会というのはその成立ちの故によるものか、前半生においてドラマチックな体験を経た人が、今は静かで平凡な市民生活を過している、というようなケースによく出会うことがある。

 この場合、こちらが記者であるとしても、興味本位にその過去に関心を寄せることは、礼儀に反しよう− と言うことで、森栄氏の場合も前々からその存在を耳にはしていたが取材はためらって来た。

 森栄氏は太平洋戦争時の日本帝国海軍の駆逐艦々長の中で、奇跡的に生き残った人といぅ意味では貴重な生ける資料でもある−であり、終戦時海軍少佐、戦後、海上自衛隊で一等海佐(大佐)まで勤めながら昭和四十年一家をあげてブラジルに移住した、という経歴の持ち主である。現在はサンバウロの東京銀行に勤務しておられる。

 ここにそのことを若干の読みものとして、取り上げたのは、思い切って氏を取材した結果、その移住の動機にひどく今日的な問題意識を聞き、その内容に随分と驚かされたからである。

 驚いたままに、その話を取材ノートからとりとめもなく書き写してみる。

 まず、氏は終戦直後の昭和二十三年、移住を決意し、以後十七年間その時機を待って、昭和四十年−失礼ながら自身は老人に近い年でありながら−それを実行した、という。

 その動機を理解するためには、順序としてその前半生のことを紹介せねばならない。

 氏は大正三年生まれ、昭和十一年海軍兵学校を卒業、軍艦八雲を始め各種艦艇約十隻を経て、兵学校教官時代に開戦を迎えた。

 開戦後昭和十七年十月から十八年六月までは、イソド洋方面の作戦に水雷艇「雁」の艇長として参加、ご本人の言葉を借りると「あの時は散々叩かれどうしで…」。そしてそのあと十八年十月から二十年六月までの二十カ月間、駆逐艦「朝顔」の艦長を務めた。

 帝国海軍には開戦時、百二十数隻の躯逐艦があったが、開戦時から戦い続けて終戦時まで健在であったのは、表舞台の雄である、かの有名な雪風、同じく響と、裏舞台のこの朝顔ぐらいのものであった。

 三十数年後の現在、氏は六十一歳、柔和な表情の端整な老紳士といった印象の人で、その風姿や言葉の端々に海軍士官のスマートさを残している。そして、この駆逐艦長時代のことを 「いわゆるコソボイ(CONVOY)作戦と申しまして、物資輸送船の護衛が仕事ですから、言うなれば、縁の下の力持ち。作戦には表作戦と裏作戦があって、その裏作戦に属する地味な仕事ですから、記事にして貰えるようなチヤンバラは無いですヨ…」と言って笑った。

 コンボイ作戦というのは、当時の列強軍用語で、日本語では、「物動輸送作戦」というのだそうである。駆逐艦朝顔の任務はシンガポール、ボルネオ方面から石油を始めとする各種戦争物資を日本本土へ運ぶ商船団の護衛で、この護衛作戦に四十数回従事した。

 輸送船を狙う敵潜水艦や爆撃機と闘ったわけである。

 朝顔としては前々艦長、前艦長と森艦長時代を合わせ合計約百回の護衛作戦に従事、森艦長の後は七二年練習艦隊司令官として来伯した石榑艦長に引き渡された。

 森氏の表現を借りれば、「朝顔は当時マッタクよくこき使われ、こっちは満足に眠れるのは月の内二日ていど、戦争の想い出はただただ眠かったことです・・」という。この間、敵潜水艦一艦を撃沈じ、一方輸送船側からは「朝顔が付いてくれると安心だ」と喜ばれるほどの好成績を上げた。損害を少なく押えた、という意味である。

 なお森氏は水雷艇「雁」艇長の折、マラッカ海峡西口でもう一隻敵潜水艦を沈めている。合わせてこの二隻は「撃沈確実」と判定されたものである。

 勿論、護衛中の輸送船を沈められたことも何度かある。最初の経験の折のことは、今でも森氏の脳裏にハッキリと浮んでいる。

 「突如、ものすごい轟音が海上に響きわたり一万トン級の船が、巨大な炎の魂−その直径は船体の二倍ほどの−となり、それが下の方から海の中ヘスーつと吸い込まれて行き、なおも海の中の活火山のように海面から火の柱を空に向って噴き上げるのです。

 船の形も何も残らない。ホンの二〜三〇秒の間です。こういうのを轟沈(ごうちん)と言います・・・・」

 「・・・・その時は心臓が全周から締めつけられて、数秒間は物が言えない・・・・」と森氏はその折の衝撃の度を表情に浮べ深刻に表現した。

 戦争末期には既に制海権、制空権が完全に敵の手中にあるにも拘らず、第十次レイテ湾突入作戦に出撃(19年12月)したり、シンガポールヘ石油を取りに行くタンカーの船団部隊の指揮官として、決死行に出発(20年3月)したり、特攻隊を二隻の貨物船に積んで沖縄の途中まで行ったり(20年3月末)、そして朝顔退艦後、上海の参謀に赴任するときは 「二十五耗機銃用信管を台湾に届けるためこれを満載した輸送機に乗って上海まで飛んだ。弾が一発でも飛んで来て当ったら、信管が爆発して輸送機諸共四散する。だからどうやって行ったかというと、猛烈な嵐のなかを海面スレスレに飛んで行ったのです…」というように、数回にわたって何度も何度も「今度ばかりは死は免れ難い」と覚悟する任務に従事し、かつ死線を越えて、やがて終戦を迎えた。

 戦後しばらく京三製作所の第八工場長(兵器部門)などを勤め、この会社にも「ブラジルに進出されてはどうか」と社長に勧めたことがあるから、戦後の移住者としての意識は先覚者の部類に属しょう。

 この時、自分自身で直ぐにそれを実行しなかったのは、子供が幼なったからで、その成長を待つため「何年には長男が学校を卒業する。何年には次男が・・・・・」と各家族の線図を書きながら計画を錬った。

 その後、氏は海上自衛隊に移り、もみ・はるかぜ艦長・第二警戒隊司令・戦史編纂宮・海幹校研究部員等を歴任、昭和三十三年の第一次遠洋航海では旗艦「はるかぜ」の艦長を務めた。そして、定年退官後の昭和四十年、いよいよ母堂、夫人、三女をつれてブラジルに渡る(長男と次男は先発)わけだが,筆者がその動機を問うたところ、氏は

 「今お話した戦争体験によるものです」とキッパリ答えた。

 こう言われても、残念ながら筆者には戦争体験と移住がどう結びつくのかよく分らなかつた。キョトンとしている鈍感な筆者のため氏ほ話を続けた。

 「当時、戦略物資と言われたものは主なものだけでも二十七、八種類あり、その内、日本が自給可能なものは僅か~2〜3種類、逆に米国は日本が自給不可能な数だけ、すなわち25・6種類位自給可能でした。」

 「駆逐艦々長として、輸送船や200人からの部下の命を預っていると、先の先まで見通し手を打っておかねば間に合わないわけで・・・・・戦争が終った時、今度は部下の代りに最愛の家族を守るため生きようと決心し、そして資源豊かな国へ移住を・・・・」ここで漸く分りかけた。

 森氏が戦争で命をかけて感得したものは、世にありふれた戦争の悲惨さ、といった通俗小説的なものではなく、「これは資源戦争だ」といぅ問題認識であったのである。そのことを氏は朝顔艦長として石油を始めとする戦略物資を輸送する船団の護衛作戦を、二年近くの間、睡魔と闘いながら続け、海中秘かに我を追跡し来る刺客のごとき潜水艦に神経をとがらし、その輸送船を目前葬られ、時には〃石油確保”のため、戦死は必至の決死行を試み、それでもなおかつ、あるいはそれ故にこそ日本は負けた、といぅ体験から学び取った。

 そして、家族の将来のため、資源ある国へ移り住もう、と決めたのである。

 それにしても、驚嘆するはどの周到さではある。しかしながら、その周到さが、他の有数十艦の逐駆艦は沈んでも、朝顔のみを―奇跡ではなく―生き残らせ、その乗員中から―冬の台湾海峡で最愛の乗員二人を波にとられた以外は―一人の戦死者も出さなかった、といぅ結果を生み、輸送船の損害を最少に押えた、のである。これは神が与えた運命と先の先まで考えた指揮によるものであろう。

 ところで、今日われわれが何気なく使っている資源問題という言葉に関する認識には若干の不足があるようだ。一般的にこの問題は近々ここ十年、特に石油ショックを機としてクローズ・アップされて来たように認識されているが、もっと歴史的に見てズッと前から問題意識があった、ということである。

 森氏によると、「日本では経済界やマスコミが騒ぎ出す十数年も前(オイルショックより約二十年前)に海上自衛隊内ではやかましく、護衛作戦の必要上この資源問題(海外依存度)ということを研究していた・・・」といぅ。

 そして、その発想の起点が太平洋戦争にあつたわけであれば、少くとも日本人に関する限りは、この問題に対する対処の仕方はもっと周到であるべきはずであったわけである。何しろ、昭和二十三年の時点で、この問題を自分の家族の人生選択の基点に置いた人もいるのである。

 「森栄氏は、最後にその家族の近況を楽しそうに話してくれた。

二男,二女(一女は東京)はいずれも,立派なブラジル社会人として活躍するか,活躍する人を配偶者としている。

 かくして「私はすでに、〃予備役〃の人間・・・」と一歩退いて物を言いながらその表情はひどく満足気であった。

(実業のブラジル76年1月号)

 

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