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十年目のご挨拶

    サンバウロ市 森   栄

 なにわ会の皆様に壮行会をして頂いて祖国を出発以来、早や十年となりました。この間絶えずご親切なお心遣いを頂き厚くお礼申し上げます。

 着伯後約六年半はリオの東岸のニテロイ市におりましたが、ここで65年の練習艦隊の柴田、鈴木の両兄をお迎えし、71年には引越直前に押本氏をお迎えしました。

 次いで当地では、河野、山田、樋口、富田,坂元の諸兄をお迎えしましたが、河野、山田,富田氏の会社は当地に芽を出しております。

 河野氏会社には化学専攻の私の長男を拾って頂きましたし、また富田氏は今を去る昭和20年1月9日夜台湾左営軍港内で、私め乗っていた朝顔の第一缶室右舷に艦首で大孔をあけた海防艦星代の主計長であったことが判り、30年振りの奇縁に驚き大笑いしました。

 ニテロイは暑いことと,子供たちから離れているという難点はありましたが、景色の良い海岸と和やかな人心に恵まれ、日々是好日の生活を送ることができました。

 これに比べ当地サンパウロは、ブラジル経済の中心地だけあって万事ガサガサしておりスモッグも東京以上と言われておりますが、科海抜八百米余で気候良く、また子供たちの来訪も多く、さらに日系コロニアの中心地でもありますので外国にいることを忘れさせるような気軽さをもっております。

 仕事の方は、ニテロイでは山県建設、当地に移ってからは、鉄工所、経営コンサルタント会社を経て、73年7月からブラジル東京銀行調査部図表室に勤めております。

 私自身は五〇歳でまいりましたので、前進行脚なかなかつかず、凡々として年齢を加えるばかりですが、さすがに青年である子供たちは、過去の約10年を順応時代として、今日漸く軌道にのりかかったような感じが見受けられます。

 長男は河野社長のご指導を受け、73年末から翌年Z月にかけ訪日研修し、現地会社設立後は愛車をかってサンパウロ州およびバラナ州北部を走り回って営業活動中ですが、この面積が大約日本国土と同じくらいとなりましょう。

 長女の婿は南米第一の種鶏場の飼料部長をやっていますが、鶏が一五〇万羽で、ここの社長は二〇歳ぐらいで着伯し、約一〇年各種鶏場を体験し、あと独立して二〇年にしてここまで達したと開いております。全く偉いものです。

 次男は74年友人と共に、当地の東北約1100粁の田舎に約32町歩の畑を買い、銀行融資を受けて国際商品を栽培して北米に輸出しょうと準備中ですが、私共夫婦も75年元旦次男の事に便乗して出発し、二日の日の出頃畑に着き、間口約五百、奥行約六百古米の畑の中央で、次男が作ってくれたラーメン入りみそ汁を頂きながら感無量でした。

 私の家は戦後「不在地主兼正規軍人」の理由で田畑はもちろん、家邸まで買収されそうになり、家邸だけは取り戻しましたものの、田畑は全部買収され、当時自転車一台分ぐらいの代金を母が受取った次第ですが、今やこの次男の畑によって漸く三〇年振りに失地回復の悲願が達せられたことになりました。

 また私たちとしても、こんごたとえ世界的飢餓が来襲しても、逃げこみ先ができましたので一安心です。ただし家から畑までの距離が日本でなら東京から博多までぐらいに当りますので、土曜日曜を利用して一寸遊びに行くという訳にはゆきませんが、銀行の年次休暇でも利用して年一回は遊びに行きたいと思っております。

 九月始め、畑の片隅に六米四方の家を三軒建てたそうですが、この屋根はスレート、回りは木造、床はコンクリートという家一軒が日本円で約一〇万円でできたと聞いてピックリしましたが、よく聞いてみると現地は木材が豊富で疵物は全部山積して燃してしまうので、この疵物をトラック三台分ただで貰ってきて利用したそうです。

 次男たちは、畑買収後ブルトーザーを使って西隣りの川を三カ所堰止め、幅約30米長さ約200米の池を二つ作りましたが、今月出来た家の西側窓を夜開くと虫の音が聞え大きな螢が飛び交いナカナカの風情があるそうです。

 さらに融資おり次第、次男はコンビ(マイクロバス)を運転してアマゾン地区に苗木を買いに行くそうですが、この片道距離が約三千粁あります。

 これら拙宅の長男次男の例からみましてもこの広大なブラジルを開発するためには、まず自動車で長距離を走るということから始まるように思われます。

 私は着伯後数年間は、日本あての手紙に毎回日伯経済提携を提唱し続けましたが、70年頃からの日系進出企業の進出振り凄じく、現在約五百社に迫ろうとしており、また74年は田中総理、75年は福田副総理が来伯するし、今や私が下手な太鼓をたたく必要はなくなりました。

 そしてこれらの日伯経済提携の過程を眺めてみますと、そのなかで総合商社の長い歴史にわたる国際活動の功績が最も高く評価されなければならないのではなかろうか、と愚考する次第です。

 私も着伯以来、高血圧、胃潰瘍、腎臓結石と、時々病気を体験し、わが身の船体機関の老朽を痛感しておりますが、この対策として七月から自然食を始め、今では高血圧の抑込みに成功しているようですが、今後も細々ながら生命永らえ、若い方たち、子供たちの活動を眺めたいと考えております。孫もこの十年で十名となりましたが、うち六名はブラジル国籍をもっております。次男と三女が未婚ですので孫の総勢が十名を越すのも近いことでしょネ。

 当地の海軍出身者をもって編成する桜花会も、永住組と派遣組とが渾然一体となって仲良く協力し合って伯国開発のため活動中ですが、派遣組の一人として私のコレスの横山 博氏(海機44期)も三菱重工のボイラー技師として広い国内を東奔西走中で、全く力強く頼母しい限りで、同氏のブラジルにおける飛行時間はすでに相当なものと思われます。

以上着伯10周年に当りまして、なにわ会日頃のご親切なご協力にを感謝しつつ簡単ながら近況お知らせといたします。末筆ながら会員ご一同様のご自愛とご活躍を切に祈り上げます。

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