平成22年5月15日 校正すみ
水野 行夫君への弔辞
矢田 次夫
水野君、どうしてこんなお別れになるの。去る16日朝突然君の計報が飛びこんだ。
世の無情と言ってみたり、青天の霹靂などと言ってみても、何ともやりきれない。悔まれてならない。駆けめぐる計報にクラス一同耳を疑いしばし呆然。世の中にこんなことがあってよいものか。聞けば若き日の中学校の同級の方々の集いに、朝元気で伊豆に向い、その夕べに急逝、幽冥境を異にするとは何ということ、誰とて信じ得まい。俺もこの間,君からバーレーンに外地勤務中の娘さんご一家を昌子夫人とともに訪れ、素晴らしい砂漠に沈む夕陽の絶景の話を聞いたばかりではないか。
しかし痛恨の極みながら今となっては謹んでお別れの御挨拶を申し上げるほかはない。
顧みれば昭和15年12月、志を海軍に立てお互いに海軍兵学校の門をくぐった。海軍兵学校の歴史の上で四号と呼ばれた最後のクラス72期生だった。この聖地で厳しい教育訓練の末、不撓不屈、文字どおり倒れて後にやまんかなという江田島精神をたたきこまれた。その間、鬼の住む生徒館といわれる中、君は常に下級生の蔭となり日向となり、カバイながら指導していた温厚な姿が目に浮かぶと、クラスメートは述懐を寄せている。
我々は昭和18年9月、期間を短縮して卒業となった。短い海上実習の後に戦局不利に傾きつつあった第一線に配属されていった。
爾来、我々のクラスは神風特別攻撃隊、人間魚雷と言われた回天攻撃隊の隊長として散華したものが多いのだが、君は水上艦艇に乗り組み、俺は潜水艦に進んだので戦時中は顔を合わせることはなかった。しかし、昭和19年10月の捷一号作戦で軍艦鬼窓の艦長付・航海士としてフィリッピン海域で勇戦奮闘し、遂に沈没して波間で「鬼怒万歳」と叫んだという君の生々しい思い出を鮮烈に聞いた覚えがある。そのあと君は、当時サイゴンに所在した第11特別根拠地隊勤務となり分隊長を命ぜられた。実質的には根拠地隊の陸戦隊指揮官を兼ねており、23才の若き水野海軍大尉の采配振りをみて驚嘆したと友は語る。
君は見事にその任務を完遂し、終戦後まで立派に戦後処理をしたと聞いている。
お互いに戦後の苦難の時機を経たが、新しい海上警備隊が発足するに至り、昭和27年7月15日入隊し、再び海上防衛の任務をわが仕事に選び、これ以来海上自衛隊における君との交友が深まった。
君は浜ッ子で、もともと貴公子の風貌、ソフトなムードの持ち主であった。俺のような野人ではなかった。従って部下の人達にも人格的に慕われたタイプの指揮官であった。
自衛隊では海幕通信班長、自衛艦隊情報部主任幕僚等、通信・調査・情報関係で活躍した。その間、幹部学校教官や総監部監察官を歴任し、統幕・陸幕二部等統合機関でも卓越した能力を発揮した。特に通信・調査分野で大きく足跡を残して昭和51年4月海将補をもって退職したが、その功績をもって平成5年春の叙勲において勲4等旭日章授章の栄に輝いたことは記憶に新しい。君は自衛隊退職後も自らの研鑽を怠らず、各種の免許資格への挑戦、フランス語など外国語の勉強など敬服の至りであった。特に野村不動産の嘱託としての勤務では、誠実な君の人となりと真摯な勤務振りが社内は勿論顧客の間でも大きな信用と信頼を呼んだ。英断をもって自衛隊OBを採用された会社の首脳部に頭が下るが、これに応えた君の業績が、それ以後野村不動産が数百名にも及ぶOB採用の道を開いたといっても過言ではないというその功績は大書に値するものと思う。
水野君、君は自分の命運を知っていたのではないか、かねてから夫妻で旅行する趣味の人であるとは思っていたが、この度昨年11月から12月中旬にかけての約1ケ月のパーレン旅行、帰国後12月末から本年1月上旬に至る豪華舶「あすか」による新年のガム島クルージング、引き続く2月初旬の北海道札幌「雪祭り」を楽しんだとか、この矢継早の夫妻ともどもの、古稀の旅、俺にはどうみても偶然と思えない。その昔,本土決戦に備え 新編された霞ヶ浦の第10航空艦隊司令長官前田稔海軍中将のご令嬢昌子夫人を迎えてクラスメートの羨望を集めたが、その夫人と青春の思い出を、強行軍をもって辿ったように思えてならない。昌子夫人も色々思い当られるふしがあるのではなかろうかと拝察する。
俺は昨年君の油絵の展覧会を拝見した。可愛い孫娘智美ちゃん、由香利ちゃんが画かれていて、巾広い趣味に生きている君の姿を素晴しく感じたが、孫によせる心情にも打たれた。
それだけに最愛の昌子夫人はもとより娘さん達の御家族、高土様、岩崎様、とりわけ目に入れても痛くないお孫さん智美ちゃん、由香利ちゃん、良平君に寄せる思いを多く残して誠に残念な旅立ちであったと思う。
こうしていても小学校1年に通う智美ちゃんを毎朝駅まで送るのが楽しいと言っていたが、その足音が聞こえて来るようだ。この上は残された御家族の皆様をしっかりと天界から見守って上げてくれ。我々クラス一同も十分なことは出来ないとしても御遺族に出来うる限りお役に立ちたいと心に期している。
水野君、心安らかに眠りたまえ。
クラスの面々、君の御冥福を祈ってここにぬかずいている。水野君、さようなら。
平成6年4月20日
海軍兵学校第72期 矢田 次夫
(なにわ会ニュース71号11頁 平成6年9月掲載)