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平成22年5月15日 校正すみ

宮原健児 戦闘記録

 

昭和15

12・1 海軍兵学校入校

 

昭和18

9・15 同校卒業 少尉候補生被命 山城乗組 柱島ニテ訓練

10・10 「トラック」ニ陸軍並ニ物件ヲ輸送

伊勢、山城、竜田、空母2、利根、筑摩、駆逐艦若干、

帰り、空母隼鷹 豊後水道ニテ舵機部ニ魚雷ヲ蒙ル、巡洋艦ニテ曳航

  11・ 5 呉ニ帰還

 1117 拝謁被仰付

  1119 千葉ニテ一泊 洲崎空ニ着任・海軍練習航空隊兵器整備学生被仰付

 

昭和19

3・15 任海軍少尉

9・7 兵器整備学生教程卒業

9・15 任海軍中尉

  1019 出撃準備(小官乗艦千歳)

1020 瑞鶴、瑞鳳、千代田、千歳別府湾出港、豊後水道ニテ伊勢、日向、大淀、筑摩、五十鈴、秋月、杉、槙ソノ他駆逐艦若干ト集結

1023 攻撃隊発進、直衛零戦16機残ル、攻撃隊敵空母×2ニ損害ヲ与へ天候不良ノ為帰艦セズ 比島基地ニ帰投

1024 0830頃ヨリ敵「グラマン・アベンジア」ノ雷兼爆ノ攻撃ヲ受ク、 我方直衛零戦16機、第1次攻撃ニヨリ我方損害瑞鶴右舷ニ魚雷ヲ受ケ約2度傾ク、瑞鳳後部「リフト」ニ25番×1直撃、格納庫内ニテ炸裂炎上、乗組員必死ノ消火作業業ニヨリ消火ス。千代田機械停止、大破炎上後落、水平線ノ彼方ニ見失フ 生存者皆無(青山中尉、甲賀、稲葉戦死)。千歳小破炎上 戦闘航行差シ支エナシ  司令部ハ大淀ニ移乗、母艦ハ戦闘機収容不能トナル。 全機着水搭乗員救助セズ  0930頃第2攻撃、千歳撃沈サル。 生存者小数(高山大尉戦死)、敵ノ攻撃ハ以後連続的トナリ

1500頃瑞鶴、1530頃瑞鳳撃沈サル(渋谷大尉弾庫ニテ戦死)、生存者ハ駆逐艦、戦艦ニ救助サル。約500ノ生存者ハ反復救助ニモ拘ラズ駆逐艦ノ燃料不足トナリ残置(小官槙ニ救助サル)。其ノ他ノ損害、秋月、杉轟沈、伊勢前檣ニ25番×1、小破。

沖縄中城湾入港 駆逐艦ニ燃料補給セントスルモ油槽船不在(小官五十鈴ニ移乗)

奄美大島ニテ日向ニ移乗シ、呉入港 直ニ次期作戦ノ都合ニヨリ大分ニ回航 大分航空隊ニ帰還ス

  11・1 ヨリK作戦準備 六〇一、六五三、六三四ニテ編成、大分ニテ零戦、彗星(すいせい)、天山、零戦爆

 1115 天候不良ノ為一日延期

 1116 全機発進 同日六五三空解隊

  1122 戦闘三〇六飛行隊ニ転勤「ダグラス」ニテ大分→厚木→横空→木更津、千葉ニテ一泊 神ノ池二向ウ

1123 神ノ池ニ着任 七二一空編成中

 

昭和20年
 
1月  都城ニ展開、 戦闘三〇六、三〇七、訓練ニ従事、邀撃戦ニ参加

2月  宮崎ニ転進

3月  富高ニ転進

3・12 徹夜ニテ邀撃準備

3・18 黎明ヨリ零戦×32上空哨戒(1・3中隊) 

0630敵戦闘機発見、残部零戦×32発進、零戦×64海上ニテ邀撃、敵ヲ撃退ス。爾後燃料ノ関係ニヨリ上空哨戒ヲ行ハズ。正午頃敵ノ銃撃ヲ受ケ零戦急速発進、敵ヲ撃退ス。地上ヨリノ帰投電信ニヨリ零戦誘導「コース」ニ入リツツアルトキ、雲上ヨリ「グラマン」之ニオソイカカリ山上、4機墜落(植田戦死)。地上指揮ノ拙劣ニヨリ大損害ヲ蒙ル。

1700現在、実動数37機、喪失約20、神雷攻撃参加ノ為零戦×37鹿屋エ転進ノ予定ナル所、又敵襲ヲ受ケ転進中止トナル。

3・14 神雷攻撃参加ノ為零戦×37鹿屋転進

3・19 零戦×19、一式陸攻×18、櫻花×16沖縄攻撃ニ出発 我方損害中攻×18、櫻花×16、零戦×15、零戦×2、鹿屋帰投、零戦×2喜界ケ島不時着(小林)。零戦ノ直衛不足ノ為不成功ニ終ル (古関、小原戦死)

  爾後戦闘三〇六、三〇五、三〇七戦爆特攻隊ニ変ズ。 旧搭乗員ハ二〇三空ニ転勤。櫻花搭乗員ニテ編成ス

3・20 沖縄決戟ノ為 小官鹿屋ニ進出
6月  沖縄決戦ニ敗ル

6・1 任海軍大尉

7・12 鹿屋発、決号作戦展開ニテ観音寺ニ転進

7・13 2000大分湾発、山鳥丸輸送

7・14 0500松山着

7・15 松山発、観音寺着

8・15 終戦

8・22 休暇

9・7 休暇終了帰隊、終戦事務

11・5 復員

12・1 予備役編入

1219 大阪陶業株式会社佐野工場ニ入社

(なにわ会ニュース53号15頁 昭和60年9月掲載)

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