平成22年5月15日 校正すみ
宮原 健児君
東條 重道
年賀御辞退の挨拶状で宮原君の病没を知らされました。同じ大阪に住みながら御逝去を知らず、御葬儀にも参列できず、まことに申訳ないことでした。御冥福を祈るばかりです。
12月18日、荊妻を伴い御仏前にお詫びにまいりました。元々頑健な方ではなかったが、一昨年(56年)夫婦お揃いで台湾旅行されるほどでしたが、リウマチが悪化して次第に食欲もなくなり、58年夏入院。約3ケ月必死の御看病も効なく、58年10月2日肺炎を併発して逝去された由です。リウマチは痛みが激しく、身体の自由がきかないため御本人は勿論、看病も大変だったろうと存じます。心からお悔み申し上げます。
宮原君は大阪出身、天王寺中学、10、35、35分隊、兵器学生を経て航空部隊勤務。戦後伯父様が重役をされていた大阪陶業株式会社に勤務、一時期小生の仕事を手伝ってもらい、小生と同居していた。形式だけだが仲人もしてきた仲。温厚な紳士。クラス会にはあまり出席しなかったようですが、幾人かには万一の場合知らせるようにと夫人に云い付けてあったとか。昨年現住所に引っ越した折住所録が行方不明になり、どなたにもお知らせせず、親戚だけでご葬儀された由です。
御遺族は幸子未亡人と、娘さんがごく近所に縁付き,孫二人いるので賑やかとか。一人暮しで勤めに出るので昼は不在です。
長いご看病で大変だったろうと御同情申し上げましたが、すっかりお元気を取りもどされ、クラスの皆様に色々お世話になり、有り難とうございました。とお伝え下さいとのことでした。
宮原健児の訃報 (押本記)
宮原の計報を最初に知ったのは、58年幹事の富士栄一であった。12月のクラス会通知の返信に奥様から、「夫健児儀12月2日死去」と書いてあったので、びっくりした次第。
早速、大阪のクラスに連絡をとり、上記の小林、山本が弔意に行ったということで、全くご本人やご遺族には申訳ないことをした。
クラスメイトの参列もなく、淋しいお葬式ではなかったかと想像している。
なにか戦争中の潜水艦乗組の戦死者を思い起したが、考え様によってはこれも一つの「死に方」であったかも知れぬ。聞く所によれば、大分前から体調をこわし、大阪のクラス会にもご無沙汰していたようだが、それでもクラス会費は毎年滞りなく送ってくれていた。
写真も適当なものが間に合わなかったので、小灘から生徒時代のものを提供してもらった。
淋しく一人で死んでいった宮原の胸中を思うと、クラスメイトとして何もして上げられなかったことが、悔まれてならない。謹んでご冥福を祈るのみである。