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平成22年5月15日 校正すみ

松崎 修君を偲んで

田中 春雄

昭和28年10月、海上警備隊(海上自衛隊の前身)に入隊してはじめての赴任先護衛艦「かえで」に着任した。戦後、松崎との最初の出会いである。彼とは生徒の頃は生徒館も違い、特に親しく付き合うことはなかったが、すぐその人柄の良さに(はら)の底から何でも話し合える間柄となった。

当時、松崎の配置は砲術長であり、航空出身の彼には畑違いであったが、訓練射撃では見事な成績をあげ司令からお誉めの言葉をいただいたのを憶えている。彼の性格は、一言にして言えば「外柔内剛」、無口で控え目で、いつもにこにこしていたが芯は実に強かった。

一例をあげれば、「かえで」における射撃に関し、砲術専門の上司からそのやり方についてやや権力をカサにきた言い方でクレームがついたことがあったが、彼は自分の信ずるところを主張して()げず、所信を断行したことに、顔に似合わず芯の強い男という印象をうけた。

「かえで」時代は二人ともチョンガーで、松崎は酒をほとんど飲まず、むしろ洋菓子を好物とする甘党であったが、酒の雰囲気を好んで、誘えば決して嫌とは言わず一緒に上陸して飲みにゆき、深夜徘徊したこともあった。

そんなとき、小生の叔父から従姉妹の結婚についてよい人があったらとの話があり、今から考えると不謹慎な話だが、上陸して大いに愉快になっていたときに松崎に話した。彼は「ルッキング」(見合い)についてOKの返事をした。そのとき小生も気が短いし何時までもぐずぐずしているのは性に合わないので、三回デイトして結論を出してくれと条件(?)をつけた。酒の勢いで言ったことでもあるし、まさか本当に三回で返事がもらえるとは思わなかったが、三回日が終ったとき一言「もらうよ」の返事、小生嬉しくもあり驚きでもあった。松崎夫人田鶴子の誕生である。本人は勿論のこと(?)叔父は大喜びで、小生の株があがったのは事実である。

松崎と親戚になると、酒飲みで粗野な小生との比較において、スマートでやさしく真面目な彼の優位は衆目の一致するところ、「修さん、修さん」と親類中の評判は上々であった。

その後、海上自衛隊航空の発足とともに彼本来の飛行機の分野に移り、艦艇関係の小生とは配置を共にすることはなかった。

昭和47、8年頃と思うが、新しく海上自衛隊調査隊が編成されることになり、松崎は選ばれて初代隊長として就任した。何でもそうだが、新しい組織をつくり仕事を始める場合、将米を見極め、あるべき基礎を正しく作ることは大変難しいことであるが、彼はその作業を立派にやり遂げたと思う。このことは、海上自衛隊退職後、南湖院の勤務において荒廃した同院を新しい構想のもとに現在の立派な「太陽の郷」に築き上げたことに通ずるものがある。

「太陽の郷」を現状までにした彼の努力の跡は、院長高田準三先生の弔辞に余すところなく述べられている。「太陽の郷」建設に当って、科学者であり理想家肌の高田先生の意をたいして頑張った彼の気持の底にあったものは、高田先生との相互信頼関係であり、実務運営の面を全面的に任せられて、人生意気に感じ、新しい姿の老人ホームの建設に情熱を燃やし、それを生き甲斐として勤務したと思う。休もうと思えば休めるものを、それこそ寝食を忘れての言葉どおり、日曜も正月もない毎日であったようだ。

そんなに忙しいのに、クラス会と身内の冠婚葬祭の行事には必ず出席し、仕事の関係で宴なかばにして早く切り上げて帰ったことも数回あり、彼の凡帳面な一面を浮彫りにしている。夫人田鶴子さんによれば、無口で喜怒哀楽の情を現わさず、その点張り合いなく物足らない思いをしたこともあるようであるが、やることは思いやりに満ち立派な夫であり父であったと思う。

松崎の家は「太陽の郷」の近くに在る。その土地は、高田院長の所有地を安く譲っていただき家を建てたときいている。深刻な土地事情を考えれば、高田先生の松崎に対する好意の並々でないことを感ずるとともに、その信頼が如何に厚かったかがわかる。

 松崎が亡くなるしばらく前、電話で話したときは「背中が痛くて夜よく眠られなかったが最近快くなった」とのことだったが、急をきいて一瞬呆然となった。

葬儀は、松崎が全力を尽くして整備し、高田先生が彼の名前の「修」の字をとって命名された「博修館」において、クラスも多数参加し、「太陽の郷」関係の方々の弔問をいただいて盛大に行われた。

松崎もって冥すべし。心からご冥福を祈る。

(なにわ会ニュース66号11頁 平成4年3月掲載)

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