平成22年5月14日 校正すみ
松崎君に捧げる言葉
白根 行男
一昨日、遂に死んでしまった松崎君と、残された奥様と娘さんのまり子さん御一家に申しあげたく一文を草しました。
祭壇左手中央付近に、なにわ会なる会名があります。参会者の中には、ひょっとして、関西のお笑い寄席かと思われるかも知れませんが、松崎及び本文を捧げる私、白根がクラスを共にした海軍兵学校第72期と期を一にした機関学校、経理学校の合同クラス会の名称であります。
松崎病篤しの噂は、昨秋よりとり沙汰されていました。松崎の太陽の郷奉職の機縁は、同じく兵学校卒業以来の教程を同じくした、洲崎海軍航空隊兵器学生同僚の溝井によるものでした。私も同じ兵器学生でしたが、その溝井を介し、松崎の病状のただならぬことを覚悟したのは、昨年暮のことであったと思います。
万一、松崎にもしものことがあった時は、海軍関係を含めて、畢生の問、最も交りの深かった、太陽の郷の高田準三先生に弔辞をお願いすべきだということに、溝井との間で一致していたのがこの春でした。今溝井は、職務上、アメリカにおり、今日の危急に間に合いませんでした。さぞ心残りのことと思います。
私どもの記憶は、ディスク化されていませんので、いわゆる往時茫々となり勝ちですが、松崎の御父君は、海軍兵学校第31期の方です。何故、何時、それを覚えたのか怪しいのですが、多分、私どもが兵器学生になった頃、洲空の主計長は、31期加藤隆義大将の御子息でした。当時、同じ隊に、永野修身元帥の御子息が、予備学生出身で教官配置にいました。教育部隊としての練習航空隊故、戦闘しない以上、安全とされた人事だったのでしょうか。今頃、下司の勘ぐりをしてもしかたありませんが、加藤大将の御子息に関連して、松崎の31期子弟という記憶になったように思います。
その31期からは、他に及川古志郎、長谷川清と3人の海軍大将を出しています。更に、有名な山本五十六、嶋田繁太郎両大将は1期下の32期です。松崎君を偲ぶ際に、これら大先輩の功罪は勿論、論外のことなのですが、縁あって私の妻となった山口弥栄子は、実は31期の子女にあたります。つねづね妻の払い寄せるクレームは、昔の海軍さんは、もっと優しくおだやかだったと、亡父を対照にして、私の粗暴、軽卒さを戒めます。
所詮、業のなせるわざ、今もなかなかはめられる域には達しません。
死んだ松崎は、諸人一致してゼントルマンと評しています。海上自衛官としての奉職履歴の委しいことは知らないのですが、高田先生のお言葉にもあると思いますが、優しさ、誠実さは、クラス随一であったことと、御父君の第31期に妙なる繋りを感じます。
全く覚えていなかったことですが、松崎の所属する第46分隊が、卒業年次の昭和18年の総合短艇競技に優勝したことを知りました。松崎一人の努力でないことは勿論ですが、兵学校時代の最も晴れがましい競技に、団体優勝の栄を得た一人であったことは、彼を目して、温和にして芯の強かった人と評する、一番の根処のように思えてなりません。
第2期兵器学生は卒業時、23名でした。そして瞬く間に8名が戦死しました。戦後の病没者は君を含め6名となりました。
戦後すぐの森山修一郎の法事に弔辞を捧げて以来、久し振りにこのような有難くない機会を与えてくれたことを、どう考えてよいのか、アメリカ人となった古川の昨春の死去の状況を憶い起し、かれこれ、思いは乱れるばかりです。
ただ、松崎よ! この世に残った田鶴子夫人とまり子さん御一家の幸福を、いつまでも守ってやってくれ。
1991年7月12目
元海軍大尉 白根 行男
(なにわ会ニュース65号16頁 平成3年9月掲載)