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平成22年5月15日 校正すみ

松山 匡喬君を偲んで

斎藤 政幸

4月22日夜10時頃北九州地区の折橋君から中央からの連絡として、鹿児島県知覧町に住む松山君の死去を知らされた。灯台もと暗し、急遽県内に住む野村君に照会したが、彼も聞いてないとの事で直接本人宅に電話して確認する有様であった。電話に出た相手があまりにかねての彼の声そっくりであったので、あわてていたせいもありいきなり「松山本人?」と問い掛けたものの「本人は昨日午前8時死去しました」と来たのでいきなり二の句が継げず恐縮する一幕もあった。

彼からは今年1月18日付で年賀状を貰って居て、それには昨年11月初め急性膵炎(すいえん)胆管手術の為年賀挨拶が遅れた旨ことわり書きがあった。其の後再び病状悪化し入院加療に努めたが薬石効なく膵臓(すいぞう)癌のため22日朝不帰の客となった由である。

ちなみに電話の相手は彼の姉さんの子供さんで、彼が大学まで面倒を見た甥の有川氏であった。戦後、彼は郷里の知覧町松山に帰り、年老いた母を助け乍ら、馴れない農業を持ち前の努力と研究で立派に克服し、一人前の農民になりきっていたようである。

小生が鹿児島市に落着いた48年頃、戦後始めて野村君と二人で彼を知覧に尋ねて行ったとき、彼は村落の中にある小さな旅館で昼食の接待をして呉れたが、彼の住居はうっそうとした杉や竹の林の繁みに囲まれていた事、彼は独身で老母の面倒をみて居り、自宅には厩舎があってあの頃もう珍しくなっていた肥った農耕馬が飼われていた事や、会食雑談最中に突然(かいこ)に餌をやる間だと断って中座したのを印象深く記憶しいる。

60年頃と記憶するが彼が戦前住んで居て永らく人に貸していた西鹿児島駅近くの土地を処分することになり、その頃そんな関係の仕事をしていた小生の処にも時々顔をせた。

そう広い土地ではなかったが立地条件が特別良くなっていたので相当高価に売れたようで、あと、すぐその近辺の裏通りに土地を買い、白亜七階建のマンションを建ててオーナーになるとともに、田舎にも住居を新築した。
 
彼の戦後最も得意の時機であったように思う。当時彼は大変若返った様に見えた。そんな頃出鹿する彼をつかまえ、野村君と3人でミニクラス会を開いた。その席上、我々は彼に妻帯の話を持ちかけたが、この方面の話には全く興味示さなかったが、土地が売れたら海外旅行に皆を連れて行こうと大見栄を切って見せたが、が今となって微笑ましく思い出される。

本人自身海外旅行はおろか国内旅行も殆んどする事なく、働く事を趣味みたいに生きた生涯であったようで、最近でも田舎で農業に従事するかたわら、週一回鹿児島のマンションに出てきて、マンションの管理・雑用を手掛けて日を送っていたようである。

目をつむると白黒映画の映写幕の中に、地味な背広を着て、手に古い黒皮の手捉カバンをさげた姿勢の良い戦前風の老人がひょうひょうとして消えて行く後姿が思い浮かぶ。

松山君さようなら、安らかに眠り給え。

 (なにわ会ニュース73号5頁 平成7年9月掲載)

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