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平成22年5月15日 校正すみ

松田 清君への弔辞

渡辺  望

 松田君、6年前の8月21日、奥さん愿子さんを見送ったこの八光殿で、今日は君を送ることになった。

君は紀元2600年といって祝賀された昭和15年12月に名門八尾中学(昔の大阪3中)から難関を突破して、海軍兵学校の第72期生として入校した。

一緒に入校した俺とは同期という縁で結ばれ、俺、貴様と称する間柄となり、それから60年の付合いが始まった。

大東亜戦争酣の昭和18年9月15日に期間を短縮、繰上げ卒業することになったクラス625名の同期生の中で、君は30番以内の優秀な成績で、少尉候補生となって江田島を巣立った。

艦船組と飛行機乗りと半々に分けられた我々の中で、君は艦船乗りとなり、戦艦山城から巡洋艦大井、次に駆逐艦初霜乗組となって太平洋戦争を闘った。

この戦争では、54%、335名の同期生が散華したが、幸いにも君と俺とは戦死することなく復員することができた。

復員後、君は大阪帝国大学医学部にすすみ、卒業後は大阪大学付属病院勤務を経て、八尾市山本に於いて松田外科を開業した.

君が大学病院で挙げた最大の戦果は、奥さん愿子さんを獲得したことであった。

君は学生の頃猛烈な勉強家で、身体が痩せる程根気よく頑張った。

母上様が、折角生きて帰って来たのに身体を毀してしまうと心配されたことを思い出す。

君は誰にでも敬愛される人柄で、同期生の中でも人気があった。

戦後荒廃の中で、昭和22年5月頃、君の家の離れを利用して同期生の初会合を催したことから、関西の同期生仲間の中心的存在として活躍した。

面倒見のよい面もあり、戦後の公職追放令を受けた吾々の何人かの就織の世話もした。また、気前のよい点が人に好かれる因ともなった。一例を挙げると、呉で終戦を迎えた時、手にした退職金を惜しげもなく気に入った芸者に与え、借金棒引き、フリーにした。これは女性にあまいからだったこともあるが。

俺は昭和31年以降関西を離れて勤めることが多かつた。その間君は喉頭癌で、一時言語が不自由なことがあり、或は家を飛び出して脱線放浪したとか、色々噂を耳にすることかあつたが、昭和62年の暮に関西に戻るまで会う機会が少なくなっていた。

関西に戻って君を訪ねると、病院は東京霞が関ビルの設計に携った同期生の池田武邦君の設計による立派な姿になり、名称も松田クリニックと変わっていた。

平成3年9月30日〜10月2日のなにわ会伊勢志摩旅行の時、勝浦のホテルの風呂場で倒れた頃より君の体の衰えを感じた。

平成6年8月20日に奥さん愿子さんが他界されたが、11月16日江田島に於ける古希のクラス会には出席した。戦没者慰霊祭の献花の際、祭壇に登る時、手を貸さなければならない程足腰が弱くなっていた。

関西なにわ会には平成8年6月22日に参加したのが最後で、だんだん歩行困難となった。よく俺は、脚は衰えたけれど、首から上、口だけは達者だとひやかしなから一緒に酒を飲んだものだ。

家内が、先週一度松田先生の様予を尋ねてみたらと云うので、17日の湘南CGC、同期生のゴルフの後に、君が好んで酒の肴にしていた錦松梅を持って見舞おうと話をしていた失先、君の計報を横浜の寓居で知った。

従って去年11月20日に様子を尋ねて電話で話しあったのが君との最後の交友となった。君の他界で、戦後物故者は90名を数えるようになった。同期生の弔辞の終わりに、俺も間もなく行くから先に行って待っていて呉れ。暫くの問さようならと結んでいるが、俺は世界一の長寿国となった日本では、80歳を超えることが普通と思うから、君に言う言葉は、そちらに行っても俺を忘れないで呉れといって、お別れの言葉とする。

ご冥福を心からお祈りいたします。

平成12年4月21日

渡辺   

(なにわ会ニュース83号6頁 平成12年9月掲載)

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