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平成22年5月15日 校正すみ

松原 義人君の死を悼む

横田 敏之

悲報に接して

7月27日佐藤英一郎より松原がなくなったとのしらせを受けたとき「シマッタ」と絶句した。実はその前に大堀より「松原が心筋硬塞で入院中だが知っているか」と「いや全然」「4月17日旅行から帰った夜、突然倒れすぐ救急車で近くの東邦病院に運びこまれた。面会謝絶中」とのこと、その後再度大堀より「峠は越した、娘さんが『クラスの連中が皆心配している』と言ったらとても喜んでいた」と、また、「面会出来るようになったら知らせる」とのことで心待ちにしていた矢先、突然不帰の客になろうとは痛恨の極みである。

思えば、彼とは兵学校一号時代45分隊で一緒であった。分隊監事は田中一郎教官、伍長は小沢尚介、伍長補が彼であった。今も当時の写真帳が残っているが、当時のさまざまな記憶が鮮明に思い浮んでくる。

卒業後は、彼は航空隊へ、小生は水上艦艇へと分れ音信も断たれたままとなった。

戦後、彼が東大に進学したとのことで一度彼の家をたずねたことがある。たしか久我山で少し丘のような坂道を登った所で、玄関には妹さんらしい人がチラリ顔を見せたが、どうもあの人が出棺時ご挨拶をのべられた宮田氏の奥様のようである。彼の親父は王子製紙で、彼もその影響で林学を志ざしたとのこと又学生に戻ったのは、「頭を冷し、切り替え、人生再出発には有効であろうと」とのことで、このためかもしれぬが小生も一年遅れて京大農学部の門をくぐることとなった。

学校卒業後、彼は山へ(山林部で富士、名古屋等転々)、小生は海へ (南氷洋、北洋捕鯨)、陸に揚がっても清水、平塚等ドサ廻りが多く別れ別れのままで会うことは殆んどなかった。

最近2〜3年前から45分隊会に出席出来るようになり彼と再会することができた。昨年10月7日の分隊会では、元気そのものでまさか急死しようとは夢にも想像出来なかった。

その彼が65歳の若さで突然死ぬとは、何といっても早過ぎる。やっと働き蜂の峠を越え、厚生年金をもらうようになったばかり、人生80歳というではないか、これからユックリ熟年フルムーンで田舎の温泉めぐりとか海外旅行もせねばならなかったのに、小生もいまだに夫婦で海外旅行なるものをしたことがない、彼とて同様であろう。奥さんの話によると、3月2人で鳥取の郷里に帰った時とても楽しかった由、これからもっと遊ぼうと孫をつれて伊豆のリゾートマンションを見に行き帰った日のことであった由、誠に気の毒に耐えない。

45分膵の思い出

今懐かしく当時の写真帳を開き思い出にひたっている。

@ 桜花爛満の下、一号生徒正装にて集合

全員実に凛々しい、紅顔の美青年達であることよ。その中でも一番写真うつりのいいのが松原で、身長178p、体重65s、そして眉目秀麗、まるで映画俳優にしても遜色がなさそうだ。

A 朝礼巡視

当番生徒として巡視中の松原の後ろ姿のスマートなこと。ちなみに背の高い順に前列。小生、服部、小沢、山下、後列。西田、奥山、中村、安保、神

B 岩国航空隊実習

全員航空服姿の似合っていることよ。既にベテランパイロットの如し。中でも彼の姿が一番凛々しい。彼は中攻へ、小形軽量迅敏な神、安保、山下は戦闘機へ。

C 柔道部

柔道は松原が担当、彼、小生、西田、中村とも堂々たる黒帯姿。ちなみに小沢が剣道、小生は水泳、短艇は中村であった。

D自習室にて真面目に勉学中

小沢伍長、叔父さんが金丸信か甲府弁で、「・・・・」とお達示。

 松原伍長補「只今伍長の言ったことはだなあ・・」と東京の標準語で補足。間一髪、中村「三号、短艇の整備が悪い。食後直ちに短艇前に整列」

 また、神「貴様等の階段の登り方全くナットラン、本日は徹底的に修正する、力一杯駈け上ってこい」

と今でもその姿が浮かんでくる。

45分隊会

例年10月頃、三号の好意とご尽力により青山で開催している。昨年の出席者、田中分隊監事夫妻、一号は小沢、松原、中村、それに小生と安保の令弟、二号ヘッドの得能は毎年大阪から夫婦で出席、三号のヘッド樺守も常に夫婦で出席、計夫人方六名。時には楠瀬未亡人がまた、お嬢さんを連れてくる者もいて総員約30名位となかなかの盛会で和やかな一夜である。

然るに一号は誰も奥方を連れてこない。これは伍長の小沢が悪い、伍長補の松原も気がきかない、伍長補は娘が三人もいるではないか。「顔見せに連れてこい」との意見もあったが、既に30以上のオバサマ達で彼の自由にはならない模様であった。

また、一号のモーレツな鉄拳制裁について
 神、安保さては西田、山下は戦死し、故人に文句を言っても仕方がないとすべて中村に集中砲火、「飯もロクに喰う暇がなかった」と攻撃を浴びせられるや、伍長補「マアマア・・・・ところで権守、ゴルフのハンデは・・・・」と話題を変えてくれる有難きご仁であった。

 

葬儀は西五反田の桐ケ谷斉場で29日(土)7〜8時お通夜、30日(日)11〜12時告別式が行われた。この斉場は葬儀、火葬場、会場がセットになった便利なシステムであった。当日は彼の徳のいたすところか曇り空で真夏にしては涼しく、クラスからは両日とも数十名が出席した。祭壇には彼の経歴が物語るように本州製紙、及び「ホンケン」等の子会社、厚木緑化、ユニオンエースゴルフ等の関連会社からの生花が多数飾られ、その中に「海軍兵学校第72期」のものも左上段に供えられていた。告別式は本州製紙OBの水永君とクラス代表中村元一の弔辞があり、兵学校時代、戦争中のこと、更には戦後の多岐に亘る業績が紹介された。小生も終戦直前のサイパン奇襲作戦706空の「剣作戦」と彼とのことは初めてであった。

愈々柩に遺族と共に花を飾らしてもらった。彼の顔はやや白く、やせ気味であったが安らかに、にこやかに眠っているようであった。

出棺後、白根当番より「手空き総員控室にて待機」とのことでクラスより20名位が残った。暫くして茶毘が終ったとの報せで遺族とともに彼の骨を拾わせてもらった。変り果てた白骨を壷に移すときの悲しさは感無量であった。それから初7日の仏事、更にお清めの会食にも略全員が参加した。最後に奥様より「こんなに多くの皆様にお送り下さいまして、本人もどんなにか喜んでいることでしょう・」と涙ながらのご挨拶があったが、娘さん3人共立派に家庭の人と落着いてはいるものの、これからの広い家で只一人となった淋しさはいかばかりかと察せられた。

追悼会

さて、斉場より三三五五と散って行った筈であるが、何となく心残りを感ずる者共不動駅前で電車には乗らず白根引率のもと松原地区クラス会と相成った。

@ 今年はもう葬式は行わないとの決議採択、

本日顔色のよくなかったYとAは早速鎌倉へ行くよう注意(注、この者以外にも殺到した模様)。

A 引続き松原及び大岡の病状診断とその処置について昨日出席した高橋院長の口述を樋口が解説。特に不整脈、動脈硬化、動脈瘤について詳細報告。

B 本日の弔辞中村元一に対して謝辞、重ねて乾杯……と一応マトモな内容であった。

それでもまだ後ろ髪を引かれるのか、目黒駅にて又々脱線三次会と相成った。このシツコイ悪童共の名前を忘れぬうちに書いておく。

定塚、大塚、大堀、原田、田中、それに小生、

この頃はもう酔顔モウロウ、ロレツも廻らなくなっていた。

@ 松原と小林は一緒に王子製紙に入ったのだろう、小林は王子の副社長で社長候補、松原も入社当初から役員候柿だった。当然本州で副社長か専務位には頑張ってほしかったなあ。

彼の性格について討論、

頭はよかった・・・学は開成だって。

寡黙であった・・・ロベタかなあ、雄弁ではなかった。

真面目であった・・・クソがつくのじゃないか。

繊細緻密であった・・・やや神経質だよ。

見合結婚だって・・・恋愛出来るようなズーズーしさはなかった。

以上、要約すれば清廉潔白な海軍士官であり、典型的なA型技術屋タイプであったようだ。

A 青マークの原田に「お前この頃元気いいじゃないか、何か秘訣でもあるのか」「太極拳だ」「朝5時半から善福寺でやっとる」「お前もこい、肥満はアカンゾ」と忠告あり。

B 定塚イ44潜で硫黄島から帰投し通信参謀と口論の末ナグリ合いとなったあの興奮、今も忘れじ「クソッタレ」と。

C 「70期のKの野郎、ネー猛だったな」「お前もやられたんか」・・・ともう支離滅裂とどまるところを知らず。しかし、ユクトコロマデイッタらしく誰とはなく「運動旗一流」「錨揚げ」と各艦母港に向いつつ、「今夜家に帰ったら女房にしかと言っておく、俺の葬式の時にはなあ、クラスの奴らにはタップリ飲ましてやってくれ」と「ウィ、全く俺も同感」と千鳥足にて桃源郷をさまよえるが如く電車にてコトコトゆられながら、瞼を閉じれば在天の英霊さぞ喜んでくれているものの如くニコヤカな笑顔がうかんで来た。「オイ」と語りかけんとするや、虚空には微妙なる天楽の声聞こえ……。

 

ハナビラは何処よりともなく雨降りて・・

さながら君の遺徳を称えるものの如し。

(なにわ会ニュース61号19頁 平成元年9月掲載)

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