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平成22年5月14日 校正すみ

槇原秀夫君への弔辞

足立 暢也

 槙原秀夫君 私より年若の君に、こうしてお別れの言葉を述べなくてはならないのは、本当に悲しくて残念でなりません。

 思えば、我々海軍経理学校第33期生徒50名が、全国三千数百名の受験者から厳選され入校したのは、昭和1512月1日でした。当時一高、三高等と並んで天下の難関と称された海軍経理学校に合格した誇りと希望に燃えて築地に相集いました。

 以来今日まで、いわゆる同期の桜、俺・貴様の仲で家族を挙げて、特別な間柄となっています。

 第2学年を迎えて間もない昭和16年12月8日、日米開戦となり、為に卒業も繰り上げられて、18年9月15日となりました。

 「伊勢」、「山城」、「八雲」の3艦で行われた練習艦隊訓練も短期で終り、12月1日にはそれぞれ第一線の艦船に配属されました。首席で卒業した君は、連合艦隊旗艦の「武蔵」、私は空母「瑞鶴」の乗組みでした。

 その後、君は「雲龍」次いで「早霜」、「朝霜」の主計長の後、神戸垂水に移っていた海軍経理学校教官として終戦を迎えたと聞いています。私もその後、「葛城」、「花月」「12航空艦隊司令部」と次々転勤しました。戦争激化の中、新造艦の竣工、乗艦の沈没等も多かったせいでしょうか、皆同じように次々と乗艦を変わったケースが多かったようです。また、小艦艇に転勤した者に戦死が多かったように思います。終戦までの1年11月の間に4割20名が戦死しました。次第に敗色を増す激戦の中、多くのクラスメートを失ったことは、誠に嘆かわしく残念に思います。戦い終わって生き残ったクラスメートは一層その絆を深くし、それぞれの道に必死の努力を尽くして参りました。

 しかし、戦後も60年を過ぎ、次第に病没者も増え、僅か17名の生存者となっていましたところ、今また君を失ったこと、誠に寂しい限りです。

 さて、君は広島一中から、私は呉一中から入校した同郷の友であり、早々に広島弁丸出しですべてを語り合える間柄となりました。

 復員後、私の結婚に続いて君も呉の氏神様たる亀山神社で結婚式を挙げ、私も祝福の席に招かれましたが、昨夜も改めてその記念写真をつくづく眺め、お二人の初(うい)(うい)しくも喜び一杯の笑顔に涙し、越し方を色々と振り返りました。特に奥様は私の弟の呉一中の同級生の妹御であられ、特別の親近感を感じました。

 その後、君は創設と同時に海上自衛隊に入隊、私は遅れて30年に同じく海上自衛隊に入隊しましたが、仕事上お互いに会う機会はありませんでした。ただ、昭和36年統幕第一幕僚室に勤務していた私はクラスメートの富田岩芳君の誘いで、自衛隊を退官、現在の三菱ガス化学に入社することになりました。その際、君は海上幕僚監部の人事部にいて何かと大変お世話になりました。

 私はガス化学の人事担当として仕事に忙殺され、その後の君の自衛隊での活躍について詳細は承知していませんが、君が海将に昇進され、呉地方総監として故郷に錦を飾られたことを心から喜びました。

 君はわがクラスの纏めばかりでなく、海軍経理学校同窓会である浴恩会会長をはじめ、水交会、東郷神社など旧海軍関係の世話役としても骨身惜しまず努力されたように聞いて感心するとともに、我々33期の誇りと思ってきました。

 特に我々は33期にちなんで「燦々(さんさん)会」と名づけたクラス会を持ち、昭和26年から今日まで50数年の長きにわたり、月1回の定例昼食会及び年1〜2回の夫婦同伴での2〜3泊の旅行会を続けて今日に至っていますが、他のクラス、あるいは聞き及んだ人から羨ましく思われています。これも君の発起と努力に負うところ大であったと思っています。

 以上、各方面に一途な活躍を続けた君も次第に体調を崩し、最近特に思わしからずと聞き心配していました。

 去る9月12日の「燦々(さんさん)会」には奥様、お嬢様に導かれながらも出席されたとのことで安堵していましたが、急な訃報に接し驚き、天命とはいえ無情を感じました。

 ここに戦中戦後を通じ、60年の長きにわたり、いかなる時も、いかなる場においても、常に全力をもって誠を通された君の人生に満腔の敬意を表し、君の霊安らかなれと祈ってやみません。

 万感胸に満ちる中、どうか槙原君安らかにと重ねてお祈り申し上げます。

    昭和18年10月3日

 海軍経理学校第33期生徒代表 足立 暢也 

(なにわ会ニュース96号30頁 平成19年3月掲載)

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