TOPへ    物故目次

平成22年5月14日 校正すみ

巻 石蔵の葬儀に参列して

桑原 義一

「巻!貴様死んだなんて……本当か? 嘘だろう? 俺にはとても信じられないぞ!

あのように身長こそ余り大きい方ではないが、名前が示す通りがっちりした体格のあの巻が今死んだなんて……」

彼の訃報がもたらされた9月18日は、私は岩手の公務員を定年退職し、縁あって昨年4月から週2日だけ勤めることになった山形市の学校に出掛け、その夜は近くの学校指定旅館でくつろいでいた。夕食後の7時半頃、突然妻から電話が入り「先刻海軍のクラスの草野さんから電話があって、八戸の巻さんが今朝早く亡くなったと知らせて来ました」との事、これを聞いた途端私は全く驚いてしまい、呆然自失、暫くは口が利けず、脳裡を横切ったのは実に冒頭の感慨だった。何たる無常、寝耳に水、否青天の霹靂(へきれき)とは正にこの事。

憶えば昭和18年9月、江田島を卒業し、国家の為に、海に空に勇戦奮闘、態勢を挽回すべく決死の活躍も終に効なく空しく敗戦を迎えてみれば、同期の桜625名中335名があたら20才前後の若い貴い生命を水清く屍と太平洋に散華したのだった。その生き残りもここ東北の青森県には先に小笠原典磨君が逝って巻君一人となり、隣の岩手県唯一の生き残りである私と共に、戦後なお天与の生命をそれぞれの道に於いて地域に貢献し、かつ又特に地元出身の亡き期友の霊を慰めるべき立場に於いて共通する仲であった。

終戦直後、私は遠方を理由に今西艦長の特別の御配慮により、素早く退艦、呉を後にし、復員したのであるが、翌年早々充員召集になり、偶々空席ができた掃海艦神津(航海長間中君)の機雷長に補され、屋代(航海長泉君)と対艦にて先ず南西諸島海面の掃海に従事し、終って白糠(青森県下北半島の東海岸)沖の掃海任務を帯びて北上、作業の合間に最寄りの八戸港に入港した折、二度程巻君のお宅を訪問した記憶がある。当時彼は建設会社に勤務の傍ら東大工学部受験の準備中であったろう。江田島在校中分隊は勿論、班否部さえ同じということは一切なかったのであるが、八戸と言えば巻、巻と言えば八戸と、あたら彼を八戸の代名詞のように連想していた。当時、如何なる話題を語り合ったか全然記憶にないが、幾分八戸(なま)のある優しい落着いた彼の口調が非常に印象的であった。その後も昭和43年の暮、久慈市の高校で冬季講習を終えての帰途立寄って旧交を温め、なお双方娘の結婚式披露宴には相互に招きかれ、その都度余り話しを交わす暇はなかったが、ただ元気な姿に接して喜び合い安心していた。

さて、9月19日勤務を終えて山形から夕刻帰宅の車中でも、真実、巻君の急死はなお半信半疑の態で、直接自分でその知らせの真偽をたださぬうちは得心でき兼ねる心理状態であった。しかし、甚だ残念ながら、帰宅直後の夜8時半過ぎ、先ず藤井君続いて中村(元)君と立て続けに電話があり、巻君の急逝は如何とも為し難い厳然たる事実であることを改めて確認させられ「明日は吾が身か」とばかりに愕然としたのだった。 その数日後、渋谷君より葬儀用生花代の送金を預かり、後藤俊夫君からも香典を託された。

八戸市役所内に設けられた葬儀委員会の委員の方からお通夜、葬儀日程のお知らせがあり、私はお通夜当日の朝、北上市の自宅からハンドルを握り、月初め開通したばかりの東北自動車道八戸線を北上して八戸まで一気に突っ走り、八戸市体育館の会場に於いて横須賀から駆け付けた中村元一君と落ち合い、又故人が駆逐艦清霜乗組み時代の艦長宮崎勇氏(58期)に初めてお目にかかり同席した。

祭壇正面、故人の写真並びに位牌のすぐ傍に海部総理大臣からの生花(白菊)、矢田君からのも,もすぐ目についた。ステージの上三段に五十七基、フロア両袖には四十基程の生花が飾られ、「海軍兵学校第72期会」からのものは向って左のトップに供えられていた。

中村君と連れ立って遺族席の多喜子未亡人にお会いし、お悔みを申し上げた時、未亡人は涙で声を潤ませ「主人はよく72期の方々のお話しをしておりました」と言葉少なに漏らされたが、真実胸中如何ばかりかと察するに余りある感慨一入であった。

その傍で市長が「週末土曜日は午後遅くまで平常と変りなく会議に出ておったんでしたがね」と言葉を添えられた。

実は一週間前より体調不良を訴えてはいたそうである。翌日曜日の17日、自宅で吐き気を催し、主治医の往診を受け、18日午後4時過ぎ、自宅でトイレへの途中で倒れ、救急車で市民病院に運ばれたが、既に心臓停止の状態だったとの事である。

 お通夜は29日夕方6時から市体育館に約一千人近くの出席者が粛として控える中、禅宗の僧侶4人の読経で始まり厳かに執行された。その最中私の最も感銘を深くした事は、喪服の上に僧侶宛ら首から胸に絡子(らくこ)を下げられた宮崎元艦長が僧侶の読経の声に合わせ、自らも暗涌しておられる敬虔(けいけん)なお姿を眼の当りにした事であった。

翌30日の葬儀当日は晴天だった。葬儀場である体育館のフロアは故人ゆかりの2千人の会葬者で埋め尽くされた。開式5分前、葬儀に先立って、昨年行われたという「テレトピア・モデル都市」に係るパネル・ディスカッションで種々説明する故人の肉声が録音テープによって式場に流され、全く久し振りに聴く彼の肉声に一入懐かしさを覚えた。暫時、宛ら彼が会葬者の中に紛れ込んでおって発言しているかのような錯覚に陥った。午後1時導師入場し、10名の僧侶の厳かな読経の声の響く中、葬儀が式次第に拠りしめやかに進められた。葬儀委員長である秋山市長の「建設技術者として又行政マンとしてのみならず、名プランナーとして、市長の文字通りの片腕であった巻助役を失った事は誠に痛恨の極み、21世紀を担うべきかけがえのない人材を失った事が惜しまれてならない」との弔辞に続いて、我々の代表中村元一君等8名の方々からの「故人は八戸市都市基盤整備、総合都市計画策定上全く好都合の、所を得たコンピューター付ブルドーザーであった反面、心優しい文人の面影があり、又淋しがり屋でもあった」等、何れも惜別の情溢れ功績・遺徳を偲ぶ弔辞が仏前に供えられた。特に故人が旧海軍OB会で構成する八戸海交会の会長であった関係上、同海交会代表の弔辞が終るや参列の会員数10名が一斉に起立して「海行かば」を斉唱した場面は頗る印象的であった。一般会葬者の焼香が終り、閉式が告げられたのは2時40分であった。引き続いて午後4時からグランド・ホテルに於て初7日の行事が営まれ、その席上、宮崎元清霜艦長及び東大時代の学友で現横河橋梁取締役鈴木正一氏から往時の故人についての回想が詳細に物語られ、一同になお一層の深い感銘を与えた。

「八戸市の巻助役は私と江田島の兵学校で同期である」事を以前から知っていた十和田市在住の小生の娘婿が、週一度八戸市内の短大に出講しているので、昨年のある時期に八戸市長選挙の話題が出た折「巻助役は今度立たないそうですよ」と、素早く巻君に立候補の意志のないことを(いぶか)りながらも承知していた。申すならば秋山市長が述べられた通りの彼の実力・実績・評価から判断して、彼こそ後任市長最適任者である事は明白であるにも拘らず、この噂はやはり彼独自の確固たる信念に発するものと断ぜざるを得ない。即ち、「自分は職業軍人でもあり、友人や後輩を戦争で失った。一切表には出ない。これからの八戸市は若い世代が担うべきだ」と言って、度々の出馬要請・説得を固辞し、あくまでがえんじなかったという次第である。

彼の戒名は、これまで自分の座右の銘とし、日常実践怠りなかった静励と雅号の白遊をそのままに、報恩院静励白遊居士と刻された。

なにわ会の諸兄よ、故人の成仏を念じ冥福を心から共に祈ろう。

最後に、小生単に隣県の(よしみ)を以て寄稿を依頼され、会葬者の一人として以上のレポートを記した次第であるが、江田島生活中、直接的接触が乏しく彼の全貌を尽くすには至らない。追ってなおよく故人を知る期友の積極的な投稿を期待して已まない   (合掌)

八戸市役所で作成した巻の経歴などつぎの通り。

 

  

 大正13年8月19日、父丑松、母マツヱの長男として三戸郡八戸町大字中居林字外中居2番地にて出生。

  
 昭和15年11月 青森県立八戸中学校年修了

   18年9 海軍兵学校卒業

     18年9 海軍少尉候補生

     18年9 八雲乗組

   18年11月 球磨乗組

   19年3 海軍少尉

   19年3 長良乗組

   19年5 叙正八位

   19年6 清霜乗組

   19年9 海軍中尉

   19年10 叙従七位

   20年5 波号第204潜水艦乗員

   20年6 海軍大尉

   20年9月 叙正七位

   20年12月   

     21年3月 穂積建設株式会社(旧穂積組)入社

     22年4月 東京大学第一工学部入学

     25年3月   卒業

     25年4月 穂積建設株式会社復職

   34年4月 同 東京支店工務部長

   35年9月 八戸市土木港湾課長

   40年1   建設部次長

     42年1月   建設部長

     48年4月 同  企画室長兼務

     50年4   助役

   56年6月 日本建設技術協会「小沢賞」受賞

   59年5月 宮中園遊会に御招待を受ける

 平成元年9月18日 逝去(享年六十六歳)

 

趣味等

 好きな言葉    静励・小自在

             

            囲碁(5段)、将棋(3段)、
            園芸、読書

 エピソード       文人、巻 石蔵 
   昭和十五年、皇紀二千六百年記念作文に応募、全国で第一位となる。作品の結果が発表される前に海軍兵学校に入学したため記念誌を見ることができず、幻の作文となっている。現在手もとにはメダルのみ保存されている。

    県立八戸中学校の「玉鉾」には文才の片鱗がうかがえる 「海軍兵学校の記」が見える。

  「自適」という雅号で俳句、短歌に熱中した文学少年時代もあった。

(なにわ会ニュース62号8頁 平成2年3月掲載)

TOPへ    物故目次