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平成22年5月14日 校正すみ

巻 石蔵のこと

藤田 直司

 海軍兵学校の一号生徒になったとき分隊編成替えがあり、私は第42分隊の所属となった。新しい分隊員初顔合せのとき、伍長(兵学校では一号生徒の首席者をその分隊の伍長と称した)は如何なる人物かと先ず伍長を注目した。これは分隊員の誰でもが同じであっただろう。

背は高くない。どちらかと云えば低い方に属する。体躯はガッチリ型である。顔は体躯に似合った形で、おむすび型とでもいおうか。

強く印象づけられたのは、目の椅麗なことと、口元の引き締ったことだった。如何にも意志のしっかりした感じが強い。処が、一度笑うと、その引き締った唇が一変して大きく口をあけ、美しい歯並びを奥まで丸見えにした。人なつっこい人相に変るのである。その顔をみて、一ペんに好きになった。

巻 石蔵君に出遭ったときの第一印象で、今、記憶に残っているのは以上の通りである。

第42分隊に一号の同僚として東郷良一君がいた。知る人ぞ知る、東郷元帥の孫だというそのクラスメートは、正にこれ以上さばけようがないと思われる位にさばけた人物であった。伍長のことを「どすけどーん」と呼ぶのである。そして私のことを「なおちゃーん」と呼ぶ。その口癖がうつったのか、巻伍長までが私を「なおちゃん」と呼んで呉れるようになった。然し私は、さすがに「どすけどん」とは呼べなかったように思っている。

私の記憶では、伍長は豪放磊落を絵に画いたような性格だった。清濁併せ呑む豪傑肌のタイプだった。

兵学校卒業後、練習艦隊で約2ケ月、八雲乗組となったが、ここでも巻と一緒だった。

八雲では数10名(或は100人以上だったかも知れない)の候補生が乗組んで居り、なかなかゆっくり話し合う機会にはめぐまれなかったように思う。練習艦隊が終り、各艦・各航空隊等に分れていた同期生は一同打ち揃って宮中に参内、拝謁を賜わった後、愈々第一線部隊に配属となった。巻は巡洋艦球磨へ、私は戦艦榛名へ乗組みを命ぜられ、別々の任務につくこととなった。昭和18年12月から昭和20年2月まで、分れ、分れて乗艦したが、巻はその間に巡洋艦を経て駆逐艦清霜に乗っていた。私はずーっと榛名乗組のままである。昭和19年10月のレイテ作戦で戦艦武蔵が沈んだとき、清霜が武蔵の乗員救助に当ったと聞いた。そしてそのとき、清霜には巻が乗っていると、その時聞いたと思っているが、今となっては、私の記憶違いの部分もあるかも知れない。

レイテ作戦後、榛名はシンガポールを経て内地に帰り、呉でドック入りした。明けて昭和20年2月、転勤発令があり、私は潜水学校普通科学生を命ぜられ、大竹に赴任した。

ここで亦、巻と再会、共に普通科学生として一緒に潜水学校に学んだ。巻は既にたくましい海軍中尉になっていた。体躯は益々頑健さを加えていた。キリッと結んだ唇の頼もしさも亦、磨きがかかっていた。小事にこだわらない豪傑ぶりも一号時代と変らなかった。

勇ましい面だけでなく、彼は非常に人情味あふれる一面を持っていた。 一号時代に、下級生の二号生徒や三号生徒に注意を与え、或は叱り飛ばすときでも、『俺は叱りたくて叱るのではない』『俺の気持ちが分らんか』という真情が傍目にハッキリと分かるのである。

もっともそれは、同じ一号として彼のお達しを横で聞いているから分かるのであって、叱られている当の三号には、只々戦々恐々するばかりであったかも知れない。

私を呼ぶのに「なおちゃん」と云うのも、形の上では東郷の真似をしているのであるが、彼はそういって呼びかける時の態度、物腰、口調等から、云い知れぬ愛情(?)と親しさを覚えたものである。私はこれも彼の人情味のなせるわざと感じとった。

又、彼の歌をよく想い出すことがある。彼の好んだ愛唱歌(軍歌は別として)は、婦系図、湯島の白梅、湯島通れば思い出す、というあの歌である。昼の彼からは想像も出来ないような、一種の哀愁を感じさせるような、しかも、かばそく可愛い声を振りしぼって歌う「虫早い月夜の十三夜」という最後の一節が、今でも耳の底に残っている。

私が彼を人情味豊かな一面ありというのは、そんないくつかの事柄を中心に総合した結論なのである。

 第42分隊の一号生徒は、巻伍長を筆頭として総勢10名であったが、そのうち7名が戦死(飛行機、水上艦船、回天)し、敗戦時の生残りは3名であった。その3名のうち、藤木勲君が昭和33年9月に没し、巻石蔵君が平成元年9月に心不全で没した。遂に一号同分隊の生存者は私一人となってりょうしまった。
 彼の没後、クラスから聞いた話では、永年八戸市助役を勤め、何回か市長に出馬を請われたが、彼は職業軍人の故をもって固辞し、決して要請をうけいれることがなかったとのことである。彼の一途な性格、純真さを今更のように思い起こさせる。 元職業軍人たるが故に、巻石蔵君の若い日を知るが故に、彼の心情がいたい程よく分かる。

椅麗な、純粋な気持ちのまま昇天した巻 石蔵君の霊前に捧げるにしては、余りにも品位のない、粗雑な文章になって了ったが、想い出すまま前後不順で書き並べた。

拙文を許し給え。(平成2年11月16日)

(なにわ会ニュース64号19頁 平成3年3月掲載)

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