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草鹿任一校長逝去さる

編集部

 草鹿校長が亡くなられた。

『戦死した生徒に相済まぬ。申し訳ない』と毎年のクラス会で口癖のように言っておられた草鹿中将が亡くなられた。

 今年の64日なにわ会から「オールド・パー・ウイスキー」を贈られて「パー爺さんに負けないように、120まで生きるんだ」と嬉しそうに話された草鹿の任ちゃんが亡くなった。

  825日の朝日新聞夕刊は老提督の死を次のように報じた。

『草鹿任一氏(元海軍中将)

 24日午後720分、脳軟化症のため鎌倉市の佐藤病院で死去、83歳。告別式は27日午後1時から鎌倉市浄明寺78 浄妙寺で。喪主長男直太郎氏。自宅鎌倉市浄明寺11

海軍兵学校長、南東方面艦隊司令長官、軍人恩給連盟名誉会長なdをつとめた。』

  告別式の行われた浄妙寺は蝉しぐれ。故人の参禅修業の場所だったと言う。

わらぶきの本堂、質素なたたずまい。生前の草鹿さんを偲ぶにふさわしい古刹

残暑の厳しい日だったが木蔭は既に秋。

葬儀委員長はクラスメイトの桑原虎雄氏。司会は74期妹尾作太男君

ラバウル会の人達が会場の受付整理など。
 70.71.72.73期 兵学校で教えを受けたクラスの代表、武田光雄氏(70期)の弔辞。

72期は、草鹿さんの主治医として最後をみとった高橋猛典君他32名が参列した。

 1.霊鷹峯に棲みしてう  松もみどりの山を負ひ
   水清澄の江田湾に   臨みて立てる生徒館

2.燦たり菊の御紋章    仰げば高し君の恩
  朝な夕なに銘じつつ   海の守りの魂磨く

3.厳たり五条の御聖訓  附して畏しこむ臣の道
  日毎夜毎に念じつつ  ふねのいくさの技を練る

4.教うる人も学ぶ子も   心は同じすめらぎの
  醜の御楯と誓う身を   鍛へ鍛へんいざ共に

 「生徒に示す」と題して草鹿校長が作られた歌を口ずさみながらご冥福を祈った。
草鹿任一氏略歴

1888年12月7日 石川県に生まれる
1909年11月 海軍兵学校卒業
1910年7月 千代田乗組
 12月 海軍少尉
1911年4月 常磐乗組
 8月 砲術学校普通科学生
 12月 水雷学校普通科学生
1912年4月 安芸乗組
 12月 海軍中尉
1913年12月 海軍大尉、海軍大学校乙種学生
1916年6月 砲術学校高等科学生
   12月 安芸分隊長、軍令部出仕
1917年2月 浅間分隊長
1918年7月 浅間砲術長心得、鹿島分隊長
   12月 浜風乗組
1919年 浜風砲術長兼分隊長
   12月 海軍大学校甲種学生(19期)
1921年12月 海軍少佐、比叡副砲長兼分隊長
1923年12月 砲術学校教官
1924年12月 山城砲術長
1925年12月 第二艦隊参謀
1926年12月 海軍中佐、長門砲術長
1927年12月 砲術学校教官
1930年12月 海軍大佐、教育局第二課局員
1931年2月 欧米出張
   11月 北上艦長
1923年12月 第一艦隊司令部附(砲術指導官)
1933年11月 教育局第二課長
1934年3月 友鶴事件査問委員会委員
1935年2月 海軍艦政本部技術会議議員
   11月 扶桑艦長
1936年12月 海軍少将、砲術学校長
1937年12月 第一航空戦隊司令官
1938年4月 支那方面艦隊参謀長兼第三艦隊参謀長
1939年11月 教育局長
1940年11月 海軍中将
1941年4月 海軍兵学校長
1942年10月 第11航空艦隊司令長官
   12月 南東方面艦隊司令長官兼第11航空艦隊司令長官
1946年8月 戦犯容疑でチャンギー刑務所に収監
   12月 釈放
1947年2月 帰国,、予備役編入
1972年8月24日 死去

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