草鹿任一校長逝去さる
編集部
『戦死した生徒に相済まぬ。申し訳ない』と毎年のクラス会で口癖のように言っておられた草鹿中将が亡くなられた。
今年の6月4日なにわ会から「オールド・パー・ウイスキー」を贈られて「パー爺さんに負けないように、120まで生きるんだ」と嬉しそうに話された草鹿の任ちゃんが亡くなった。
『草鹿任一氏(元海軍中将)
24日午後7時20分、脳軟化症のため鎌倉市の佐藤病院で死去、83歳。告別式は27日午後1時から鎌倉市浄明寺78 浄妙寺で。喪主長男直太郎氏。自宅鎌倉市浄明寺11
海軍兵学校長、南東方面艦隊司令長官、軍人恩給連盟名誉会長なdをつとめた。』
わらぶきの本堂、質素なたたずまい。
残暑の厳しい日だったが木蔭は既に秋。
葬儀委員長はクラスメイトの桑原虎雄氏。司会は74期妹尾作太男君
ラバウル会の人達が会場の受付整理など。
70.71.72.73期 兵学校で教えを受けたクラスの代表、武田光雄氏(70期)の弔辞。
72期は、草鹿さんの主治医として最後をみとった高橋猛典君他32名が参列した。
水清澄の江田湾に 臨みて立てる生徒館
2.燦たり菊の御紋章 仰げば高し君の恩
朝な夕なに銘じつつ 海の守りの魂磨く
3.厳たり五条の御聖訓 附して畏しこむ臣の道
日毎夜毎に念じつつ ふねのいくさの技を練る
4.教うる人も学ぶ子も 心は同じすめらぎの
醜の御楯と誓う身を 鍛へ鍛へんいざ共に
草鹿任一氏略歴
1888年12月7日 | 石川県に生まれる |
1909年11月 | 海軍兵学校卒業 |
1910年7月 | 千代田乗組 |
12月 | 海軍少尉 |
1911年4月 | 常磐乗組 |
8月 | 砲術学校普通科学生 |
12月 | 水雷学校普通科学生 |
1912年4月 | 安芸乗組 |
12月 | 海軍中尉 |
1913年12月 | 海軍大尉、海軍大学校乙種学生 |
1916年6月 | 砲術学校高等科学生 |
12月 | 安芸分隊長、軍令部出仕 |
1917年2月 | 浅間分隊長 |
1918年7月 | 浅間砲術長心得、鹿島分隊長 |
12月 | 浜風乗組 |
1919年 | 浜風砲術長兼分隊長 |
12月 | 海軍大学校甲種学生(19期) |
1921年12月 | 海軍少佐、比叡副砲長兼分隊長 |
1923年12月 | 砲術学校教官 |
1924年12月 | 山城砲術長 |
1925年12月 | 第二艦隊参謀 |
1926年12月 | 海軍中佐、長門砲術長 |
1927年12月 | 砲術学校教官 |
1930年12月 | 海軍大佐、教育局第二課局員 |
1931年2月 | 欧米出張 |
11月 | 北上艦長 |
1923年12月 | 第一艦隊司令部附(砲術指導官) |
1933年11月 | 教育局第二課長 |
1934年3月 | 友鶴事件査問委員会委員 |
1935年2月 | 海軍艦政本部技術会議議員 |
11月 | 扶桑艦長 |
1936年12月 | 海軍少将、砲術学校長 |
1937年12月 | 第一航空戦隊司令官 |
1938年4月 | 支那方面艦隊参謀長兼第三艦隊参謀長 |
1939年11月 | 教育局長 |
1940年11月 | 海軍中将 |
1941年4月 | 海軍兵学校長 |
1942年10月 | 第11航空艦隊司令長官 |
12月 | 南東方面艦隊司令長官兼第11航空艦隊司令長官 |
1946年8月 | 戦犯容疑でチャンギー刑務所に収監 |
12月 | 釈放 |
1947年2月 | 帰国,、予備役編入 |
1972年8月24日 | 死去 |