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40−12

草鹿校長日記取材メモ

押本 直正

鎌倉市浄明寺の草鹿さんのお宅を訪れたのは、昭和531112日、日曜日の午後、同行は高橋猛典、眞鍋正人と小生の三人。かねて高橋を通じて取材の趣旨をお話ししてあっ

が、絲未亡人と長男の直太郎氏がご馳走を用意して待っていらっしゃったのには恐縮した。

 草鹿任一校長が亡くなったのは、47年の824日。お葬式の日が暑かったことを憶えているが、あれから六年余りがたった。ご線香を上げながら歳月の早さを痛感した。

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 草鹿さんは若い時から日記をつける習慣をお持ちだった。残されている数十冊の日記か

ら、兵学校長時代(昭和164月〜1710月)のものをお願いしたが、昭和16年の分だけがあった。昭和17年の分は南東方面艦隊司令長官としてラバウルに携行され、そのまま戦地に残されたらしい。(草鹿さんが帰国されたのは戦後の昭和222月)ただ、昭和19年の日記だけが奇跡的に残っている。絲夫人の話によれば、「従兵さんが届けてくれた」ということであるが、戦争中内地に転勤になった従兵に托されたものらしい。ほかの日記は博文館あたりで出版市販されていた例の当用日記であるが、昭和19年の分は粗末な大学ノートである。しかし、さすがに硝煙の匂いがする。

 

 一月五日 雨 八十九度

 昨夜一寸空襲アリ 夜来豪雨 五時起床 七時病院二行キ文月、皐月ノ負傷者ヲ見舞フ 皐月艦長飯野忠男少佐 左脚切断ノ手術ヲ受ケ乍ラ艦橋二在リテ椅子二坐シタル儘指揮ヲ執リクルハ勇敢ナリ 軍刀一振ヲ贈ル 貧血ノクメ一時危険ナリシモ夕方持チ直ス

(編者注 翌六日の日記に「飯野皐月艦長遂二今朝逝去」の記述あり)

文月砲術長平柳育郎中尉胸部及腹部貫通銃創ニテ重症入院後間モナク戦死シ見舞二行キタル時ニハ方二火葬場二送ラムトスル間際ナリシガ拝礼ノ後副官ヲ九三九空二派シ級友二通知セシム 佐々木中尉直チニ病院二行キ他ハ火葬場二集ル可ク信号セシ由ナリ 彼レ七十期ノ首席トシテ晴レノ卒業式ノ光景尚ホ記憶二新ナリ 駆逐隊二於テモ大ニ司令以下ノ信頼親愛ヲ受ケ居リシ由ナルニ惜ム可シ

 九時過ギ敵機来襲セシモ雲雨ノタメニ進入シ得ザリシ如シ 九時半頃ヨリ幕僚会報

 午睡 十三時頃ヨリ二十二dg司令岡中佐ノ皐月文月戦闘報告ヲ聴ク 次イデ木山警備隊司令来リ防空砲火ノ訓練ノ状況ヲ説明ス

 「チブス」三種混合予防注射ヲナス

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 著名人の日記にも色んな形態がある。

二葉亭日記、啄木日記、一葉日記のように日記文学とよばれる一連のもの、永井荷風や徳川夢声のように私事世俗をとりまぜて後世に残そうとした意図の見えるもの、さらに原敬日記や木戸日記、さらに宇垣纏中将の「戦藻録」に見られる主観客観をとりまぜた資料的日記など、執筆者の意図で内容も文体も資料的価値もさまざまである。

この意味では草鹿さんの日記は平凡である。単なる備忘鋸といった方がよいかも知れぬ。しかし、一見平凡の中に草鹿さんならではの味というか、風格が随所に見られるのである

例えば、161121日の日記は判読に苦しむ程の乱筆で書かれている。

 朝剣道 坐禅 午前午後書類精査

 夜六時ヨリ武道ノ為メ来校ノ人達ヲ集会所二招キ一石ノ歓ヲ尽ス 九時帰宅之ヲ書ク

 従ヒテ乱筆ナリ 相当二酪酎ス

「武道ノタメ来校ノ人達」というからには、いづれ柔道五段とか剣道六段とかいう猛者だったにちがいない。酒量もけたちがいに多い人達であったろう。それらの人達と「一夕ノ歓」をつくして校長官舎に帰ったのが九時、十一月の末といえば江田島の夜はかなり冷える。ましてや妻子を鎌倉に残しての単身赴任である。ガランとした校長官舎には火の気は無い。独りで机に向った草鹿さんはこれだけのことを書き終ると、かすかに生徒館の方からきこえてくる巡検のラッパを子守唄として熟睡されたにちがいない。

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 絲夫人はとても八十歳をこえたとは思えない。ハイカラで、おしゃれで、いきなおばあさんである。五月四日の日記に(この日東京出張のため鎌倉の自宅に帰っていた。日曜日)

 『午前十一時五十三分電車ニテ久、外吉同伴上京ス(中略) 新橋下車ノ際、久「ハンドバック」ヲ車中二置キ忘ル 依ツテ久ハ松屋二買イ物二行キ我ハ外青ヲ伴ヒテ(中略)

新橋駅ニテ久卜会合シ東京駅二行キ「ハンドバック」ヲ受取り・・・・・(後略)』とあるので、「この久(ひさ)とはどなたですか」と質問した。ところが絲夫人、シレッとして「存じませんね。どこかの芸者衆でしょう」あとで長男直太郎氏の話によると、「母の戸籍上の名前は絲です。ところが祖母(任一の母)が「いと」でしたので、同じ名前で紛らわしいため、家の中では「ひさ」と呼んでいました」。うまく一杯喰わされたわけである。

 真鍋と二人でさんざん御酒などをご馳走になり、(高橋は中座)、そろそろ暗くなりかけたのでお暇乞いをしようとすると、夫人が「せび、おしのぎを召上って行って下さい。亡くなった主人から、『うちに来たお客様には必ずおしのぎをお出しするように』と申しつかっていますので・・・・」といいながら、手打ちのそばを出して下さった。浅学非才の小生、「おしのぎ」という意味がよく分らなかったが、帰って料理の本などを調べて見ると文字通り一時しのぎの食べ物であって、正規の食事ではないが、別名「腹おさえ」ともいう軽食のことだそうだ。草鹿任一さんが、 「家に来るお客には必ずおしのぎを出すように」と言われた所以は、草鹿家の家風ともうけとられるが、校長日記の日曜、祭日の項をみると、何とまあ「おしのぎ」を食べに行った連中の多いことよ。日く

 「第一学年生徒何某、何某、何某来訪、しるこ、ぼたもち、羊糞、すいか、「ランチ」、すきやき等馳走シテ云々」これらの生徒は正規の昼食、すなわち竹の皮につつまれた弁当を持って外出した筈であるから、校長官舎の分は「おしのぎ」と考えるのが適当である。

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