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平成22年5月6日 校正すみ

香西宣良君の思い出

松枝 茂純

3月の末、香西宣良兄のご逝去の報に接した。同兄のことについて何か一筆をと声がかかり一瞬戸惑ってしまった。それは兄をよく知る人もいたであろうということの他に理由があるが、そのことについては後述する。

さて、香西兄との出合いは昭和17年11月、分隊編成替により同一分隊になったときであった。机もベッドも隣合わせの関係で、今から思えば他愛のない四方山話も出たものであった。約10カ月後卒業、彼は実習部隊の戦艦山城へ。(実はこの卒業式の日が彼との最後の別れということになった。)

実習部隊を経て上京、拝謁、賢所参拝等の行事が行なわれ、その後それぞれ配属先へ赴任することになるが、詰められた予定であって、ついに彼と顔を合わせる機会がなかった。

小生、その後昭和19年8月、海軍水雷学校においで震洋隊を編成、9月に父島に進出。父島で基地設営中の10月末か11月上旬のころであったと思う、一通の封書が届いた。差出人は香西中尉。そしてその内容は、

 今回震洋隊長を命ぜられ、水雷学校において訓練中であること。

 震洋の搭乗員はすべて甲飛出身者で純真無垢士気旺盛であるが、何といっても海上の経験に乏しく、訓練方法に苦心していること。それでも昼間、平水時ならば編隊航行可能な域に達しつつあること。

 このような搭乗員をもって、太平洋のど真中において悔いのない活躍をさせるには、さらに訓練を要するが、時間と資材の余裕のない今日、ぜいたくもいえず頭痛の種子であること。

 訓練終了後は母島へ進出の予定であること。

 部隊訓練あるいは基地進出前の準備、基地進出後参考になることを教えて欲しい。

というようなものであった。

父島,母島といえば目と鼻の間のようであるが、戦勢不利な当時両島間にそれほど多くの便があったわけではなく、とくに彼の要望の現地状況を知らせ得なかったことは、申しわけない次第であった。

彼もたしか、19年11月末母島に進出した。不馴れの基地設営等に苦心したことは当時の文通で了解することができたが、決して弱音を吐く人ではなかった。機会あれば一度会って話して見たい気持ちにかられていたが、戦勢悪化、昭和20年2月米軍が硫黄島に上陸後は間断なき警戒警報・空襲警報下では一刻も持場を離れるわけに行かなかった。やがて終戦、米軍監視下のもとでは文通すら不可能となった。彼が母島から復員したのは定かでないが、昭和20年の暮ではなかったろうか。

小生も昭和21年の暮、彼に音信して見たが返事はなかった。その後昭和23年、突然音信を受けた、それによると、現在大阪に在住していること、綿製品関係の会社に勤務していること、良縁ありすでに二児の父親になっていること等、懐しい便りであった。

以後暫時音信途絶、昭和30年ごろから昨年までは年賀状交換がつづき、おたがいの安否を確認し合った。彼が体調不良のため療養中であること、最近西宮に転居したことも知ったが、そのうち再会の機会も訪れるであろうと思っていた時の計報であり、平素が儀礼的な賀状交換で終っていたことを残念に思う。

彼との関係は大略以上のような次第で、彼のことを記述するには非才の小生では、舌足らずであろうことを十分心得ているつもりである。身のほどを顧みず彼のことについて、一、二、ふれて見る。

 部下思いの温情人であった。

 父島で在勤中、小生の隊に彼の隊員が5名転属して来た。このときの彼の配慮は、至れり、つくせりといった感を受けており、今でもこの上官にしてこの部下ありという感銘を受けている。

 地味な性格の持主であった。

一号時代某英教官の訓話で、「目下の状勢は多事多難な時期に遭遇している。諸君はまもなく第一線に赴任することになるが、いやしくも名誉心とか功名心に捉われてはならない。堀の埋草となる覚悟で臨め」と教示されたことを今でも鮮明に覚えている。

彼はこの教訓を肝に銘じていたことは確かである。また海軍で受けた多くの美風美点中の一端としての「黙々たる存在」、「人に迷惑を及ぼすべからず」、「弱音を吐くな」等の精神を深く胸中に秘め、自らを厳しく規制し、表向きの華やかさを避けていたとも思える。

彼との戦中戦後の文通においても戦時中のことについては一切口にしなかったし、自己のことについて吹聴するような表現もない。また表向きの場面に出会しょうとする意志は少なかったように思える。

彼の体調不良を小生が知ったのは1、2年前のことであるが、察するに彼はこれによって他人からの同情を受けたり、あるいは多忙の身にある人々からの見舞を受けたりするのは心苦しいという気分が脳裡から離れなかったのではなかろうか。そして黙々として病苦に耐え抜いて行ったものと推察する。

彼とのつき合いは間隔をおいた文通が主であり、これによって彼の真価を掴み得ていたとは思っていない。しかし小生の推量もそうかけ離れてはいまい。となればせめて彼への最善の供養としては美字麗句の弔詞や、仰しい思い出の記事登場は望むところにあらず、むしろそのままそっとしておく方が慰霊に通ずるものではないかと思ったりしている。

おそらくこのお粗末な記述にさえも彼は「余計なことをしてくれたなあ」と地下から苦言を呈しているかも知れない。

(なにわ会ニュース45号7頁 昭和56年9月掲載)

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