平成22年5月6日 校正すみ
小松崎正道君を偲ぶ
伊藤 正敬
平成11年7月10日、小松崎正道君が逝去した。彼とは昭和18年12月5日、佐世保において巡洋艦羽里に乗艦、一緒に勤務することになり、翌19年9月、彼が潜水学校字生を命ぜられて退艦するまで、9ケ月生活を共にした。また、私が海上自衛隊に入隊することについて、いろいろ指導を受け、さらに23年問の海上自衛隊勤務でもいろいろ教えを受けた。さらに、ゴルフを共に楽しんだ仲でもあり、ここに同君の思い出を纏め、追悼の意を表したい。
一 羽黒における小松崎
小松崎は拝謁後、愛宕乗組を命せられたが、丁度修理完成した5戦隊の妙高、羽黒の2艦へ候補生を配乗させることになり、当時航空母艦隼鷹乗組だった7名の候補生(赤尾、今井、守家、畠中、伊藤正敬、斉藤五郎、小島)のうち、初めの4名は妙高へ、後の3名は羽黒(すでに機関科の土屋が乗艦していた)へ転勤となり、小松崎と生活を共にすることになった。小松崎は通信士として、小生は初め2分禄士・高角砲指揮官、19年3月からは甲板士官・運用士、斉藤は航海士、小島は砲術士を命ぜられた。
羽黒は佐世保から呉経由、トラック、カビエンへ進出、以後連合艦隊の一艦としてトラック、パラオ、ダバオ、リンガと行動した。そして、19年6月のア号作戦に参加。あの6月19日、大鳳沈没の時には、小生は第一カッター、小松崎は第二カッターのチャージとして活躍した。その後、一旦呉に帰港した後、リンガ泊地で訓練に従事していた。そして彼は9月捷号作戦の前に、潜水学校学生を命ぜられて退艦していった。この間、仕事のほか、パラオ、シンガポール等各地の上陸でも行動を共にした楽しい事が思い出される。
2 海上自衛隊における思い出
小松崎は警備隊発足時,昭和27年に、第1期幹部講習員として入隊した。当時名古屋で清涼飲料水の製造販売に従事していた私は、自衛隊発足のことは聞いていたが詳しいことが分からず、小松崎に手紙を出して様子を尋ねたことを思い出す。彼からいろいろ状況を書いた返事を貰い、更に入隊する気があれば早く入隊したほうが良いとコメントを貰った。しかし、仕事の責任者として毎日を過ごしていた私はなかなか決心がつかず、3年遅れて昭和30年8月に入隊した。
海上自衛隊において、昭和34年、私が第10護衛隊のむらさめ砲雷長の時、小松崎が第1護衛隊群司令部の通信幕僚、先日逝去した佐藤秀一が訓練幕僚、出来たての第10護衛隊の幹部がこの両君から連合軍の通信規定について指導を受けたことがある。我々第10護衛隊の幹部は米軍と協同訓練を行なった者がいなかったので非常に為になった。
昭利44年頃、私が第2護衛隊群司令部の首席幕僚、小松崎が駆潜隊司令で、ともに佐世保を母港にしていた。仕事上の関係は無かったが共に祇園町の官舎に住んでおり、家族ぐるみのつき合いであった。当時、佐世保には崎部に米軍のゴルフ場があり、平日400円、日曜は700円でゴルフを楽しめた。始めたばかりの小松崎と私はよく一緒にゴルフをしたことを思い出す。勝ったり負けたり楽しんだものである。
その後、小松崎は第一護衛隊群司令、海幕調査部長、幹部候補生学校長、呉地方総監等の要職を歴任し、海上自衛隊のエリートコースを歩んでいた。
三 小松崎とゴルフ
佐世保におけるゴルフについては前述のとおりであるが、CGCには17回参加して2回優勝している。彼のゴルフは飛ばすことに意義ありというゴルフでよく飛び、よくOBを出す。良い時は素晴しいが、一度崩れると大たたきするゴルフであった。また、厚木の米軍のコースでもよくプレーした。彼と私は殆ど同じぐらいのスコアでプレーしており良きライバルであった。
四 家内と小松崎
小松崎とは前述のように家族ぐるみのつきであつたので、久しぶりで彼に会うと必ず「節チャンによろしく」といっていた。家内(節子)も会うと懐かしそうによく話をしていた。
彼の告別式に家内同伴で参加したが、他にも家族同伴の会葬者が多かつたのも彼の人となりをあらわしていたと言えよう。
羽黒に勤務した5名のうち、小島と土屋は同艦で戦死、斉藤五郎は早く病死、そして今回小松崎に先立たれ、小生一人になってしまった。寂しい限りだが、彼との思い出を書いて冥福を祈りたい。
(なにわ会ニュース82号5頁 平成12年3月掲載)