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平成22年5月6日 校正すみ

噫 古前 英雄君

日野原 幹吾

 この夏、好漢がまた一人、惜しまれて鬼籍に入った。広島市出身、機関科の古前英雄君である。

 舞鶴時代から、クソ真面目にシンニュウをつけたような御人柄で有名だった。

 

(株)コマエ写場社長

戦後、父君の残された写真館を継いだが、約20年前、通産省の肝いりで発足した冠婚葬祭互助会の趣旨に賛同し、広島地方に誕生した平安閣という組識に協力し始め、やがて平安閣の発展につれて店舗網を拡張して今日に至っている。

市内の自前のスタジオのはか、広島市の平安閣本店、同じく岡山、福山、倉敷、岩国の各場所にスタジオを構えているが、それ以外に、9月にスタートした広島駅前のシティホテル、近くオープンする広島市並木バラストホテル、61年開業予定の広島ターミナルホテルと、息もつかず業容の拡大を計っている最中の無念の死である。

写真は白黒からカラーに変り、プロセスコストは高くつくし、一億総カメラマン時代にプロとして生き残るだけでも容易ではない。

撮し直しの利かないイベントカメラマンで絶対失敗してはならないのだが、陽の当たる産業界と違い一流の人物を雇うわけには行かない。どの施設と組むにせよスタジオの敷金は高いが、それにめげず業容を拡大しなければ利幅が維持できない。街の写真館、姿は昔のままでも、内容はひと昔まえと比較にもならぬ。そんな業態に変っているのである。

  「突っ込んだ脚が抜けず、目を閉じるまで仕事、仕事だった」と夫人貴美恵さんは涙ぐむが、知る人ぞ知る彼の会社は当地方ではダントツで業界の雄になっていたのである。

嗣子隆士君が、従業員40数名、プロセスセンターを含めると9施設を擁し、3社に分割された企業グループをこれから経営するわけだが、前途の御多幸を祈ってやまない。

鳳翔分隊長

好漢英雄君も腕白ものの私には一寸した借りがある。世間はだから面白い。戦後間もなく、田舎に居た私に厚生省復員援護局呉運航部からお声がかかった。もと学年監事喜多見芳夫大先輩のお召しで是非もなく使い走りに任じていると、「貴様艦に乗れ」と鶴の一声。佐伯港で沖がかりのもと航空母艦鳳翔に着任したが、着任の通船を待たせておき、たった三十分で、揚錨機から舵取り機まで、広い受持ちを申し継ぎ、さっさと退艦して行ったのがこの古前英雄である。

通船が舫綱を解くや否や「出港用意」となったが、航空隊勤務で、艦のことなどすっかり還納していたので、その心細かったこと。

当時、乗員の士気は地に墜ちていた。揚錨機室は、前日投錨時にスターンチューブのパッキンを締め忘れたため浸水し、ビルジポンプのモータはすっかり水没して使いものにならない。2台ある発電機のうち1台は蒸気シリンダが破れて使用不能。整備しようにもバルブの蒸気漏れのため機械は暖機し放しで手がつけられないなど、持場は問題だらけ。申し継ぐ古前のスマないというのも当然。真面目人間の古前にとっては挫折の職場だったのだろうが、知らぬが仏の私を乗せた鳳翔はそのあと9ケ月、酷使に耐え、私に遅まきながら海上勤務のロマンティックな想い出を残してくれた。それ以後、酒の席では、この貸しがたびたび話題になり、そのたびに彼は恐縮してくれた。ニューギニヤ、シンガポール、サイゴンなど、平和が(よみがえ)ったあとの航海は結構楽しかった。安心して瞑してくれ、もうこの貸しは棒引きだ。

優等生人生

業界の役員もいくつか勤めており、社葬は実に盛大だった。広島南東ロータリークラブの会員でもあったが、多年にわたり企画の業務を担当しており、例会の講演を全て録音し、深夜に会報の原稿をつくっていたとのこと。

その傍ら夫人と共に水兵流の詩吟に精進し師範級の免状を貰っている。

(数年前、それがまだ珍しかった頃、年賀状の表書きがワープロになって感心したことがあるが、2年前から経理計算もコンピュータに乗せている。システムメーカーのオリエンテーションでもマジメぶりが有名になり、60過ぎの優等生と今も語り草になっている。

ドクターストップで好きな酒は控え目だったが、時間が許すかぎり辛抱強くつき合いニゴやかに楽しんでいた。

4月に入り胸部の異状に気付き受診、直ちに入院、貴美恵夫人は翌日、「肺癌、恢復不能」と宣告を受けた由。以前から慢性的な胃潰瘍の病歴を持っており、それと誤認し油断していたらしい。

久しく知らないでいて、やっと見舞ったのは7月末だったが、まさに末期なのに希望を持って毅然として闘病しており、つききりで看病しておられる夫人の方がむしろ痛ましかった。

聞けば、医師や看護婦が驚くほどの患者で、一言も弱音を上げず、指示に従順、臨終の日の朝食もちゃんと平らげた由。

死の3日前から浮腫がとれ、生来の男前に戻って旅立ったと言う。時に昭和60年8月20日、1625、60有2年と10ケ月の精進の生涯であった。′

戒名 妙徳院繹栄憲  合掌。

  夫人貴美恵さんは、以前から事業のパートナーであったし、ご母堂は老齢ながら凛として家事を取仕切っておられる。今後の家業の御発展は疑う余地がないが、隆士君はまだ若いし、故人が残した宿題は大きい。精々級友として及ばずながら声援を続けようではないか。

(なにわ会ニュース54号24頁 昭和61年3月掲載)

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