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平成22年5月6日 校正すみ

小島末喜君の辞世の歌に寄せて

豊廣  稔

辞 世  小島 末喜


(くし)(ふる) 御丘の宮を ()(だて)てして

復言(かえりごと)せん ことのうれしさ

比島にて 死ぬ身でありし わが命

神のみもとに 今ぞいでたつ

右の二首の辞世は、つい最近毬子夫人より教えていただいたもので、彼の没後ずっとそのままにしてあった九州の家(日向市)の自室を整理していて、壁に貼ってあったのを夫人が発見されたものであるようだ。なかなか堂に入った立派な辞世だと思うのだが、「眞建」とは神道のコトバで「建てる」とか「新しく建てる」というぐらいの意味で、「復言せん」とは「後悔しない」という意味らしい。

いつこれを小島が書いたのか夫人も御存知ないようだ。小島は壁に自筆の文章を貼るのが好きで、何枚も何枚もマジックで書きなぐって貼ってあった由。その中の一枚がこの辞世であった。        

夫人はなにが書いてあるのか、いつものことであるので、さして気にもしていなかったので、整理するまで分からなかったということである。

小島は、なぜこのような辞世を書き残したのか、手掛りの一つに、本誌『なにわ会ニュース』(第65号、平成3年9月15日)の「会員だより」欄に小島自身の次のようなコトバが残されている。

昭和41年‥盲腸炎を破らせ、腸手術、をしてより、健康法・古神道に没頭。肝弱く慢性肝炎。会社は子が専務、安定。宮崎に隔月。

彼は昭和41年の腸手術の際の輸血が原因でB型肝炎に罹り、すっかり肝臓を悪くしたようである。彼のコトバの中には慢性肝炎とあるが、彼は肝硬変から肝臓ガンになることを恐れていた。肝臓の検査は定期的に行い、例の「マーカー法」による検査も併用していたようである。筆者などにもよく電話がかかってきて「マーカー法」の講釈をひとくさりきかされたものである。皮肉なもので彼の生命を奪ったのは、実際には肝臓病ではなく急性肺炎であった。しかも非常に進行の早い、抗生物質の効かない悪性のウヰルスによる「問質性肺炎」と呼ばれるものであった。

彼は自分が死ぬなら肝臓病と決めていて、その危機が明日にでも訪れるのではないかという切羽詰った気持があったのではなかろうか。彼が古神道に投入していったのも一つには比島コレヒドールで死なせた多くの部下の冥福を祈るためもあったろうが、もう一つの理由にやはり不運にも失ってしまった自己の健康を恢復せんとする悲願にも似た、思いがあったのかも知れない。

彼は古神道を極めることで、凡俗の知り得ない精神世界、宗教的境地に到達していたように思われる。その例証として彼は死ぬ3日前の血圧が上70、下15まで下がりまさに危篤の状態に陥った時、突如として仰臥した姿のままで、天井に両手を差し伸ばし、「これで、神様の許へ行けるぞッ…」と叫んだということである。

彼が古神道とのかかわりを持ちはじめたのは、昭和31年、「道ひらきの会」の会場で道主と呼ばれる会長と会ったのがきっかけである由。「道ひらきの会」とはどういう会であるのか、現時点での筆者はよく知らないが、この時から数年を経ずして自己独自の神道「天降り日の宮」を創始することになったのであろう。

彼は軟弱化する現世相をなげき、時に性急な極論を述べて相手を辟易させるようなところがあったが、おおむね自己の信ずるところに従い、言挙げして、新聞、雑誌類にもよく発表していた。利己的、事なかれ主義者の多い時代に発言の内容はしばらくおくとして、考えようによっては自分の人生を思うように存分に生きた幸せな男であったということができよう。

心から冥福を祈る。

(なにわ会ニュース71号3頁 平成6年9月掲載) 

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