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平成22年5月6日 校正すみ

小暮新八君への弔辞

村山  

小暮新八君、小暮君と何度呼んでも君の返事は返ってこない。

君はとうとう帰らぬ人になってしまいました。

この平成6年は、私達海軍機関学枚第53期生にとって、悪い知らせばかりが追いかけてくる御難の年になっています。 森山晃君が3月に、5月には福嶋弘君が、続いて君がと淋しく悲しい極みです。

また、コレスも小島末喜君、高崎慎哉君、水野行夫君、藤井伸之君、入江久憲君の諸兄が相次いで鬼籍に入り、合わせると今年はもう8名の多きを数えます。

丁度古稀を過ぎ、世間様からみれば相応の年齢まで勤められたと慰められはしますものの、この長寿の時代、平均寿命まで10数年を残していることですし、まだまだ長生きして欲しかったと悔やまれてなりません。

この正月に受け取った君の近況報告は、目下腰痛治療に通院中のほか、健康、年齢相応の若さは保っていると、それは元気な内容でした。

確かにその通りです。

2年前の秋、なにわ会の日光旅行では、地元ということもあって世話役の一人としてあれこれと面倒をみてぐれましたが、その時の君の歩き方は、いかにも腰が痛そうに前屈みになって、とことこと夫人を置いてきぼりにして一人無心に汗をかきながら先頭を歩いていましたし、昨年の機関学校卒業50周年記念伊勢旅行でも、腰痛は以前よりは少し薄らいだがと告げながらも、元気なスタイルで夫人同伴の参加でした。

君の動きを観察しますと、いつも夫人をほったらかしにして一人でとことこと団体の前の方を歩いていってしまうようで、 夫人とお二人で旅行のときもこのように夫人を引き離していたのでしょうか 君は、余程照れ屋だったのですね。

四月中旬、小暮君が心筋梗塞で入院したが軽いので、さ程の心配はいらないようだと、室井君から電話をもらい安心していましたところ、続いて入院検査の結果、胃に障害があるから5月31日に手術をすることになったと気にかかる連絡が追いかけてきました。

手術後半月ほど経った6月半ば、君を見舞ったときは、ベッドに臥せてはいたが、身体の上半身を自分の腕の力で起こし、食は余り進まないが一生懸命食べるように努め、一日も早く快くなるように頑張っていると、握手をする手をしっかりと握り返してくれました。

君から快気祝が届いたのは忘れもしない7月14日です。手術後1ケ月半経過、順調に回復してよかったと安堵していたのも束の間,君は、再入院をし、8月10日、かぼちゃのような色でどろりとしたものを相当量吐き、痰が絡むようになってきたので、医師の休暇明けに精密検査をすることになったと室井君の連絡をうけ、びっくり。

検査の結果は他の部位にも異常が認められ、手術をするには体力が消耗しているので無理ではなかろうか、カホル夫人のお気持ちは、「これ以上主人に痛い思いをさせることは忍びない」と、手術を断念したという実に切なく、痛々しい連絡を貰い、ひたすら快方に向うよう祈り続けました。

そして8月下旬、クラスの諸君全員に君の病状が悪化している旨を特別に連絡しました。9月1日、室井君に、8日に君のお見舞いに行くことにしたと連絡を入れた矢先、午後6時過ぎ君の容体が急変し、今夜が山場になりそうだとの緊急報が入ってきました。病気平癒の祈りは神仏に通じないものかと嘆きつつ次の連絡を待つしかありませんでした。

その時間の長かったこと。

翌2日午前10時、電話のベルの音にドキッとしながら受話器をとると、室井君のかすれた声が、それは別世界からの声ではないかと思えるほどでしたが、小暮君は昏睡状態に入ったが、今のところ心臓はしっかりしていて脈も落ちついてきた、なんとか山場は乗り越えた様子との連絡でほっと胸を撫で下ろしました。

室井君からは事細かく丁寧に、その都度所要の連絡をしてぐれていましたので、君の病状は手に取るように分っていましたが、ただ拱手傍観、苛立つ気持ちで病状の進まないことを願うほかはありませんでした。

取るものもとりあえず君の顔を見に行こうとお昼の新幹線に飛び乗りました。

君はベッドを覆うようにビニールのテントを張った装置の酸素吸入器で酸素の吸入をうけ、時々ぜいぜいと痰を喉に絡ませ、胃のあたりが重たいのか右手をその上にのせ眠っていました。

「小暮君、おい小暮君、村山だ、分るか」と数回大声で呼びかけると、暫くして目をパッチリと見開き.「判るよ」と口の中でつぶやき傲かに微笑んでくれました。その目は青く澄んでいました。

唇が乾く様子で、長女芳枝さんが湿ったガーゼで優しく丹念に唇を湿らせておられました。

カホル夫人が「あなた」お友達が来て下さってよかったわね」と優しく君に話し掛けると、君は嬉しそうににっこりしましたね。

最愛の夫人の声こそ君にとって最高のオアシスであったのです。

「帰るが、頑張れよ」とまた大声で呼びかけると、君は「ありがとう」と口の中で言い含み、頷き返してくれました。 これが君と言葉を交わす最後となってしまいました。悲しいことです。

君との出会いは昭和15年12月1日、海軍機関学校第53期海軍生徒として、尽忠報国の至情を若い胸に秘め、舞鶴の湾頭に聳え立つその根城に入城した月に始まります。あれからもう半世紀以上にもなります。

君とは奇しくも三号生のときは6分隊で、一号生のときは1分隊で、さらに銃剣術部員として縁が深く、訓練に学業に一生懸命励み将来国を背負う立派な海軍将校になろうと共に競い、共に助け合い兄弟以上の付き合いでした。

君は太い眉にガッチリした体格で、しかも新八という幕末の志士のような格好のよい名前のせいか外観は如何にもいかつい感じを受けるが、根は気立ての優しい朴とつな性格で、一分隊生徒次長として、下級生のよい相談相手となり、分隊の強固な団結を育むよう力を尽し、生徒長であった私を大いに助けてくれていました。

50年経った今でも、1分隊会のときはきまって君の一号生らしくない優しさが話題となり、この4月、病のために君が出席できない旨を披露したときは、三号生が次から次へと君の病状をたずね、君のことを大変心配してくれていました。これ程までに君の信望が厚かったのかと驚きもし、反面うらやましく思ったものです。「三号生徒は有り難いものだね」小暮君、しかし君は兄貴思いの三号生諸君に声をかけることも出来なくなりました。

少尉候補生の練習艦隊の乗艦は共に戦艦山城で、鬼のような山元政英指導官に四号生徒のようにみっちり絞られましたね。でも君は馬耳東風2ケ月の辛抱と平然としており、君の悠揚せまらない態度には大いに感心させられたものです。

練習航海が終ると、君は整備に私は艦船にと、お互いの武運長久を祈りながら袂を分ちました。

君は昭和19年6月、飛行機整備学生の教程を終了後、戦火の熾烈な戦場となっていた比島のクラークや.ニコルスの基地、南九州や房総の各基地に転戦し、汗と油にまみれ、昼夜の区別など無い程にひたすら飛行機の整備に打ち込むとともに、分隊士として独楽鼠のように、分散している整備各機と飛行指揮所との間を駆け廻っていました。

君の几帳面で生真面目な性格は、風防の塵一つも忽せにしない完璧な仕事振りであったことと確信します。

神風特攻に出撃する近藤寿男君を、小山力君と共に帽子が破れるほど夢中で振って見送ったニコルス基地の息詰まる君の思いは、記念誌「海ゆかば」に切々と述べられており、君にとって生涯忘れることのできない鮮烈悲痛な思い出であり、強く共感を覚えるものであります。

戦後は住友ベークライトに入社、廃墟の国土を一日も早く復興させるべく、その一翼を担い、大阪、名古屋、東京で揉まれに揉まれて戦い、生真面目さ一途に頑張り通してこられました。

枢要の地位に昇り功なり名を遂げると、君は早々と引退を決め、さっさと黒磯の地に居を構え隠棲(いんせい)してしまいました。

君の生真面目さ、潔癖さ、決断の早さがそうさせたのでしょう。

悠々自適の生活に入ると、旅また旅を趣味として、カホル夫人とともに日本全国を隈なく旅をして歩き、聞くところによると紀伊半島の一部か、山陽地方のどこかが行きそびれるくらいであるとか。

四国八十八ヶ所の巡礼、西国、秩父、坂東の札所巡りの話は、熱心な語り口で折りにふれて聞かされ、その博識振りと信心深さに感心させられたものでした。

君の几帳面さは驚くばかりです。生徒時代の言動からは到底想像できない仕儀です。

カホル夫人から漏れ伺ったお話ですが、私が外出する時,日程表は、主人が時刻表と地図をもとにして一分一秒の狂いもなく、無駄もなく、綿密詳細に作ってくれます。家に帰りつく時間までキッチリ計算されますので、寄り道もできなければ、井戸端会議にも加われません」と、君の几帳面さがここまでくれば愛敬。

これが君の愛するカホル夫人に対する愛情の表現であったと思います。

世間では孫は子供よりも可愛く目に入れても痛くないといわれていますが、君は人一倍お孫さんを可愛がった好々爺であると太鼓判を押します。

君がクラス会誌に寄稿した「孫との小旅行を楽しむ」の記事は、如実にそのことを物語っています。

細かく立てた旅行計画、孫に与えた目的地ごとの予備知識、列草の中での躾教育、神社での参拝の仕方やお守りのこと、水路巡りの舟の中、ホテルのブールで孫と泳ぎに打ち興じたこと、夕食の蟹のうまかったこと、灯台の話など、孫たちとの会話や動きが実に微笑ましく書かれてあり、「孫達よ、少し草臥れたが、私達に楽しい思い出を有り難う」と結び、優しいお爺ちゃんで、(よだれ)が出そうな幸せな君の顔が浮かんできていつまでも消えません。

君はまだまだ長生きをしてすくすくと育つお孫さん達と一緒にもっともっと楽しい旅行をしたい思いで一杯だったことでしょう、また、おしどり旅行を満喫してその仲睦まじさをせっせと私達に見せ付けたかったことでしょうー。

気象庁開設以来の記録的な猛暑は、君の命を縮めたのではなかったか。

たわわに実り黄金色のジュータンを敷き詰めたような稲田は刈り取られ、今は殺風景な田園に変わってしまっています。

小暮君 静かに眠って下さい。

はるか天国から残された最愛のカホル夫人やお子様達とお孫さん達の幸福を見守って下さい。

ご冥福をお祈りする次第です。

さようなら

平成6年9月11日

海軍機関学校第53期

代表.村山  


(なにわ会ニュース72号12頁 平成7年3月掲載)

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