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平成22年5月6日 校正すみ

小林貞彦君との9年間のつきあい

大谷 友之

  「娘の家族がこの近くに住んでいてネー、近所に移ってこないかというので、思い切って転居することにしたヨ」と小林貞彦君が関西での生活を切り上げて、同じ団地のすぐ隣の棟に移ってきたのは、9年前のことであった。
 彼とは練習艦隊のとき、八雲で2ヶ月一緒だったが班は違っていた。
 隣同士に住むようになるまでは、特別な付き合いはなかったのだが、お互い散歩が日常生活の一部になっていて、路上ですれ違ったりする度に、お互いに元気なのを確かめあっていた。耳が遠くなっていたので長い会話はなかったのだが、一日一万歩を歩くのが目的で、まだ千歩足りないといって、もう一回りするという几帳面な性格は昔のままであった。
 私が昨年11月、肺癌の手術を受けて退院して帰宅した時、夫婦で見舞いに来てくれたが、その時は甚だ元気そうだった。
 本年の年賀状には、夫婦揃っての写真入で、昨年完成したばかりの娘さん一家との二所帯住宅で写したものであった。この写真も元気そうだった。
 こちらは病後のことでもあり、年賀状の礼状を書こうとしていたところ、娘さんから電話があり、「今朝早く父が死亡しました・・・・」という。 まったく予想外のことが突発した。見送られることがあっても見送ることになるとは思ってもいなかった。元気そうに1日1万歩の散歩を繰り返し、健康の維持に努力していたのに、すぐには信じられない気持ちであった。

 落ち着いて話を聞いてみると、元旦の朝雑煮を祝い、途中で気分が悪くなったといって、東戸塚記念病院に入院したが、胆嚢(たんのう)炎から敗血症を併発したのが原因だという。
 厳しい戦争の時代を切り抜け、81歳まで生き延びたのだから寿命だといえばそうかもしれないが残念だ。もう少し、仲間として付き合いたかった。
 彼は練習艦隊が終わってから新しく設けられた兵器学生に選ばれた19人の期友の一人である。戦時中は、飛行機の兵器整備等に兵科将校として大いに活躍したようだが、いまや現存者は3名になってしまった。兵器学生の語り部の一人が、また一人去り、兵器学生というものが、段々とクラスの中で遠いものになっていくように思う。
 彼がこちらに転居してきたとき。前住者が植え放しにしていった庭の水仙を歩道の欅並木の根元に丁寧に植え替えたものが見事に成長して咲き始めていた。数本手折って霊前に供え別れを告げた。 
 これからは散歩に出ても、もう彼と合うことはない。ちょっと、右肩を下げ、片手を挙げて嬉しそうに微笑みかけてくる顔が今も目の前に浮ぶ。
          (平成16年1月10日記)

(なにわ会ニュース90号15頁 平成16年3月掲載)

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