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平成22年5月6日 校正すみ

小林貞彦君の死を悼む

溝井  清

 小林貞彦君の御霊に申し上げます。
 君は昨年末の「なにわ会」親睦会に元気な姿を見せておられたのに、わずか40日後の余りにも急な逝去の悲報に接し、私ども一同呆然(ぼうぜん)絶句いたしました。

 顧みますに、君とは昭和15年12月海軍兵学校入校以来、江田島の生徒館にて寝食を共にし、卒業後直ちに練習艦隊に配属され、当時既に戦場と化していた太平洋上での訓練航海を終えて昭和18年11月、君と私は奇しくも海軍航空兵器整備学生を命ぜられ、千葉県の洲ノ崎海軍航空隊の一隅に起居を共にして、日夜航空兵器を中心に電気通信、写真技術等多岐に亘る科学分野の研鑽に励んでおりました。
 学生は君をはじめ同期生わずか20数名の少人数であり、苦楽を共にする間に特別深い友情が育(はぐく)まれて今日に至っております。終戦後君は早稲田大学理工学部に学ばれ、日立造船のエンジニアリング、鈴木治作株式会社の要職に就かれ、その間独逸に4年間駐在される等嘗ての博識な海軍将校としての面目を遺憾なく発揮されたのであります。退職後は居を関西から故郷に遠くないこの戸塚の地に移され、悠々自適とは云うものの専ら徒歩(それもかなり長距離の小歩行)を日課として、健康管理に努めておられたと伺っており、また、仄聞(そくぶん)いたしますに、亡くななられる数日前、最愛のご家族に囲まれ一家団欒正月を祝われた由にて、その席で君は独り「別離の盃」を傾けておられたのではないかとさえ察せられて、胸がつまる思いが致します。

 かの大東亜戦争ではわれ等同期生の過半数が戦死したにも拘わらず、生き残ったわれ等同期の桜「残る桜も散る桜」とは申せ、君は新たな年の花の季節を待つこともなく何故かくも急ぎ昇天し給われたのか。まことに痛恨の極みながら今はただただご冥福を祈るばかりです。

(なにわ会ニュース90号16頁 平成16年3月掲載) 

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