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平成22年5月6日 校正すみ

噫 小跡孝三君

ひょうろく玉と白頭山節

椎野 廣

命終の6日前、5月7日、小跡は幽明の境をさまよっていた。下半身は麻痺して駄目だが、上半身はピンピンしていると聞いていたが、それにしても入院が長いなあーと疑念をもちながら広島の病院に見舞に行った。

点滴の潅注器を見て、オヤと思ったが、顔色は長病人特有の蝋がかってはいるが、血色も良いので、「よう、来たよ」と明るく振舞ったのだが、「椎野さんですよ」との奥さんの介添に

「椎野??彼奴は死んだ筈じゃが……」と言う。私の顔を見ても「よう」とも言わず、いぶかしげである。

「済みません。最近、親戚の者が亡くなりました。混同しているようですから」

ベッドの横に真新しい車椅子が置いてある。

「4月には退院して、久し振りに自宅で車椅子で生活しようなあー等と言っていたのに、一週間前から高熱が続き、食事も通らず、出血もしているようです。誤診だったんです」 脊髄を初めとしてガンは可成り拡がっていたのだ。この辺から私の心も厳しくなった。

両手は、丁度、遊泳訓練の立泳ぎのように中空に向けて真直ぐ伸ばしたままである。私はその手を握った。温かいーではなくて熱い。握り返してこない。奥さんに向って

「菓子買うてこいや」

「お菓子は頂いているんですよ」

「そうか……良かったのー」とにっこり。

何んと優しいことか。もどかしげに、くやしそうに

「ひょうろくになってしもうて済まんのー」

「え?」

チャンとお話が出来なくて残念がっております、と奥さんの通訳。

ひょうろくとは、この際、異なことを、でもピッタリの事を言うものかな。

普通の気弱な病人なら、もう手も合掌していよう。高熱で暑い (寒い?) のかも知れないが、ずっと手は真直ぐ伸ばしたままだ。

この気力!!ひょうろくを見せたくないこの気合!!時々ブッブツ言う。自嘲げにも見える。かと思うとニコリと笑う。そして眠る。しかも終始一貫、手は伸ばしたままだ。虚空をつかんだりはしない。小跡らしいなーと思う。

××××××

(あん)(ぜん)と神戸に帰り、「覚悟しております」と唇を噛みしめていた奥さんの顔を思っていると訃報が追いかけて来た。

××××××

昭和40年頃、私は証券会社の営業課長として広島で支店勤務をしていた。その頃の証券界は戦後最大の暗黒期だった。ケネディショックの時代である。株式は暴落、沈滞。投信は軒並み額面割れ。募集が終れば直ちに発行価格を割る国債。山一は日銀に救済を仰ぎ、今でこそ国際金融界の花形よ、収益日本一は目前よ、とウハウハしているが、ここ広島で原爆の被災者の園の暗闇にひそんでいるのを連れ戻す情けなきよ。過ちは二度とくり返しません』 との石碑をうち眺める皮肉さよ。

ま、そんな時代、息抜きのつもりで直ぐ近くに銀行の本店にいた小跡のところに遊びに行ったものだ。四方山話のついでに「おい、誰か良い得意先を紹介してくれ」と頼んだ。小跡は地元だし、本店にいるし、見方によれば商売仇の相手に、得意先を紹介してくれというのはド阿呆かもしれないが、そこはクラス同志の事という甘えもあるし、部下の窮状を救いたくもあったが、「貴様も変ってしもうたの」と言う。

 夜、何度か一緒に飲む機会があったが、同じように、変ってしまったのと言う。私は内心いささかムッとしたが、そう20数年前の生徒時代の感覚と尺度で「変ったの」を連発されても不愉快である。そりゃ人間いつも順調で元気であればそれに越したことはないが、時代も立場も環境も、と諸般の状態が変れば、と、言訳がましい気特もあったが、余程、覇気がなかったのであろう。腰抜けの表六玉にみられても仕方がなかったのかも知れない。昨年6月、東京で同分隊の会合で久し振りに会ったとき、

「広島時代は済まんかったの。援助も出来んで」とずーとこの20年間、彼は気にしていたのだ。

「今、野村は世界の野村になったんぢゃが、あん時、貴様を企業ベッタリの骨抜きにしてしもうた野村という会社にワシャたまげてしもうたんぢゃ」というのが本心だったのだ。どんなに不況で逆境にあっても、ハッタリでもいい泰然としておれば足踏みならして出掛けても、帰りには坊主にさせられ兵六みたいに映ったのであろう。とばかり一人で思いつづけていたのに少し違っていたのだ。

お互い、60を過ぎて、そんな事はもうとっくに忘れてもよさそうなのに「済まんかったのー」とは何んと心優しいことか。これが男の優しさというもんだ。

小跡は生徒時代、病気で上のクラスから落ちてきたので齢が一つ二つ上だった。どことなく大人っぽく、兄貴分だった。殆ど娑婆のことを知らない我々よりちょっとおませなところがあった。卒業間近のある日、クラブで白頭山節を唄った。大人っぽい節まわしに幼稚な私は痺れた。

広島時代も聞いた。やはりうまかった。張りもあり伸びやかでうまかった。

昨年6月の会合の時も私は所望した。然し、伸びがない。少し息がとぎれがち、性急に唄いあげてしまった。あの天下絶品の白頭山節も終りかなと淋しかった。アルコールが大分入っていたので仕方がなかったなと思っていたら、広島に帰って彼は間もなく入院した。

悪魔はもう蠢動(しゅんどう)しはじめていたのだろう。

(機関記念紙181頁)

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